MyBiography(16)__サッカーをはじめた頃のエピソード(その4)

■身体がアンバランスに成長する時期・・

「それは大変だったろ~・・内臓器官の成長がまったく追いつかなかったっちゅうことだな・・」

ドイツへ留学していたとき、母校(国立ケルン体育大学)の生理学研究所を主導していたリーゼン教授が、私のハナシを聞いて、そんなふうに同情してくれたっけ。

彼は、ドイツサッカー協会と、ノルトライン・ヴェストファーレン州文部省が共催し、国立ケルン体育大学で実施されていたプロサッカーコーチ養成コース(Fußball-Lehrer-Lehrgang)でも、生理学の授業を担当していた。

私は、1981年3月、7ヶ月の養成コース修業の後、ドイツ国家試験およびドイツサッカー協会公認試験に合格し、ド イツサッカー協会から、No.870の「スペシャル・ライセンス(プロサッカーコーチライセンス)」授与された。

とはいっても私は、当時も、体育大学の正式の学生でもあったわけだから、リーゼン教授の、一般の大学講義は何度も受けたことがあった。

とはいっても、単なる一人の学生だったから、世界的にも名声が高かったリーゼン教授の「敷居」は、あまりにも高すぎた。

でも、プロコーチ養成コースの正式な参加者は、ある意味、ドイツサッカー界のエリートだから、パーティーなどで一つのテーブルを囲むといったチャンスも多かったのだ。

そこで、リーゼン教授と同じテーブルで飲んだとき、思いつきではあったけれど、私の高校時代のことを話したんだよ。

「先生・・実はわたし、高校時代は、まったく走れなかったんですよ・・」

リーゼン教授が、「ケンジは、本当によく走るよな・・アンタがハードワークをするから、クラウス・ヴンダーとか才能系の選手たちも、うまくプレーできていると思うよ・・」と、私のことを誉めてくれたんだよ。

その発言が「ボタン」を押した。

それまでは、リーゼン教授に、こちらから話し掛けることなど思いもよらなかったんだ。でもそのときは、アルコールが入っていることもあって、互いに、サッカーを通じた「仲間」という気楽な感覚で接することができたというわけだ。

「でも先生・・たしかに今は走れるけれど、高校時代は、持久力が最低だったんですよ・・だから、とても辛い思いをした・・どうしてその頃、今のように走れなかったのか分からないんです・・」

「ケンジは、日本人にしては、とても背が高いけれど、どんなふうに背が伸びていったんだい?・・いくつ辺りから、1年でどのくらい伸びた・・とかサ・・」

「そうですね~・・小学校のときから、いつもクラス1番のノッポだったけれど、それが、14歳あたりから、背の伸び方が急激になったんです・・少なくと も、17歳くらいまで、一年間に5センチは伸びたですかね・・だから高校2年生のときには、すでに190センチ近くになっていたと思います」

「へ~・・それは、とても急激な伸び方だな~・・それじゃ、カレンダーエイジとバイオロジカルエイジが大きく乖離(かいり)しちゃうのも当たり前ということだな~・・」

「エッ!?・・先生・・こちらが分かる言葉をつかって説明してくださいよ・・」

「あっ・・そうか・・」

■数字の年齢と、生物学的な成長状態は、必ずしもバランスしているわけじゃない・・

「要は、骨格が急激に大きくなっても・・まあ、外見が大きく成長してもという意味だけれど・・それに、内臓器官の成長スピードが追いつかないということな んだよ・・特に、肺とか心臓とか、運動能力にかかわる器官がね・・だから、身体の大きさにくらべて、運動へのエネルギー供給が十分にサポートされないとい う状態が出てきちゃうというわけさ・・」

「典型的なのは、ケンジのように、走ったときに必要な血液や酸素の供給が追いつかなくなって、また肺の機能も十分ではなくて息が切れてしまうという現象だな・・だから、周りから見たら、ケンジの持久力が、見るからに劣るってコトになっちゃう・・」

「そんな現象を、数字の年齢であるカレンダーエイジと、身体の大きさと内臓器官の全体的なバランス状態を表すバイオロジカルエイジが一致していないなんて表現するんだよ・・」

リーゼン教授は、その後も、様々なケースを説明してくれた。その多くが、当時の私の状態に当てはまった。

「ということは、私の場合、いくらトレーニングで頑張っても、持久力が効果的にアップするわけじゃなかったってことですか?」

「いや、そうとも言い切れない・・まあ、やり方によっては、生物学的な年齢(バイオロジカルエイジ)を、より早くカレンダーと同じくらいに成長させられたかもしれない・・でも、まあ状況は、人によってまったく異なるから何とも言えないけれど・・」

その後も、アルコールに口を付けているヒマなどないくらい、しつこくリーゼン教授に質問した。そのことを通して、ある程度、納得できるだけのロジックベースは獲得できたと思う。

まあ、私の場合は、あまりにも急激に背が伸びたことで、身体と内臓器官の良好なバランスを獲得することは望めなかった・・ということだ。そこで無理をし過ぎたら、他の、成長段階にある器官に支障をきたしたかもしれない。

フ~~ッ・・そういうことか・・そういうことだったのか・・まあ仕方ない・・

でも、その「事実」を知ったことによって、湘南高校時代の辛い思い出を、少しは緩和できたような気がしていた・・と思う。

自分自身に対する言い訳(慰め)!? まあ、そうとも言えるかもしれない。

■チュンさんの期待が霧散していく・・

後から知った「事実」によって、湘南高校時代の辛い経験が、仕方ない出来事だったのは分かったけれど、当時の私が、それでとても苦しんだのは確かなことだった。

そして、チュンさんの期待を裏切った私が、二軍チームへ落ちたことは言うまでもないけれど、そこでも厳しい現実が待ち構えていようとは予想だにしなかった。

1年生のなかでは、もっとも早く一軍のゲームに出場した数少ないグループに入っていたことが、様々な意味で、心理・精神的な障害になったのである。

そう、誤ったプライド・・

キックの強さと正確さ、またダイレクトシュートの内容でもヘディングでも、チームのトップクラスという意識があった。また、ボールコントロール(ボールを止めて正確に扱う技術)でも、二軍の中でも図抜けていたはずだ・・という(過剰な!?)自信があった。でも・・

たしかに個々の局面プレーでは、優れた面もあっただろうけれど、それでも、味方とのコンビネーションが大事なチームプレーという視点では、どうだったのだろうか・・

そのときの私には、そのことについて考えをめぐらせる余裕などなかった。

もちろん持久力では、他のチームメイトに大きく劣っていた。走れない。だから、攻撃でのボールがないところでの動きの量と質で、また守備でも十分に貢献できない。

そして私は、完全に、二軍というレッテルを貼られることになった。

だからこそ、自信があるプレーに執着した。そう、湘南高校が(鈴木中が)志向する組織サッカーというコンセプトからすれば、偏ったプレーイメージである。そして、自分のプレーがどんどん「孤立」していった。

フラストレーションが溜まる辛い日々。それは、2年生の初夏までつづいた。

そんなある日、チュンさんに職員室へ呼ばれた。

■辛い宣告・・

「オマエは、持久力が足りないから十分に走れない・・そのことは、自分自身がよく分かっていると思う・・だから、チームメイトたちのパスコンビネーションにも、うまく乗っていけない・・」

チュンさんは、とても注意深く言葉を選びながら話しはじめた。とても、注意深く・・

そんな注意深い「導入部のハナシ」の後に、ゆっくりと、事実を確認するように、私の持久力について話しはじめたのだ。そして・・

「3年生は、二人をのぞいて引退した・・チームはオマエたちの世代になった・・そこでだ、まだ山口は(3年生)正ゴールキーパーとして残っているが、彼も、夏の大会を最後に、受験のために引退することになるだろう・・」

そこで一度ハナシを止めたチュンさんが、とても長い時間インターバルを置いた後、再びゆっくりと話しはじめた。

その前のハナシの内容、そしてチュンさんの話し方や表情から、私は、チュンさんが何を言おうとしているのか、感じはじめていた。そう、ゴールキーパーへの転身だ。

「もう、オレが言いたいことに気付いているとは思うが・・オレは、オマエに、ゴールキーパーへの転向をすすめるつもりなんだよ・・一度、そのことを考えてみないか?」

私は、一言も発せず、うつむいてチュンさんのハナシを聞いていた。

とても、辛いハナシだ。チュンさんも、そのことをよく分かっている。彼は、私が、フィールドプレーヤーをつづけたいと望んでいることを、痛いほど知っているのだ。

「分かりました・・一度よく考えてみます・・」

それが、そのとき絞り出せた言葉の限界だった。

そして一礼して職員室を後にした。身体に、何10キロものオモリを付けて歩いている感じ。いまでも、その感覚は、明確に思い出せる。

フ~~ッ・・

■そして私も決断した・・

数日後、私の方からチュンさんを職員室に訪ねた。もちろん、チュンさんの身体が空いている、昼食後の昼休み時間だ。

「先生・・先日のことですが、それは、ゴールキーパーへ転向しなければ、これからゲームに出していただくチャンスはないということですか?」

「いや、もちろん、そんなことはない・・ただ、いまの状態だったら、1年生にも良い選手が入ってきているし、オマエがゲームに出場するのが難しくなってい くのは確かだと思う・・でも、ゴールキーパーだったら、露木を追い越せるかもしれない・・ゲームに出場するチャンスは、そちらの方が、格段に高いと思うん だよ・・」

露木は、中学時代からゴールキーパーとしてプレーしていた。次の(我々の)世代での正ゴールキーパーは、その時点で既に、もう彼の手中にあるといってよかった。

でも、彼につづくゴールキーパーがいなかった。

もちろん何人かの候補はいたけれど、運動能力的にもセンスでも、かなり厳しいというのが我々の評価だった。

要は、露木が怪我でもしたら、ゴールキーパーという重要なポジションに大きな穴が空いてしまうということだ。

だからこそチュンさんは、背が大きく、運動能力的にも問題がない私を、ゴールキーパーとして鍛えようと思ったのだ。

「そうですか・・でも、私は、フィールドプレーヤーがやりたいんです・・ゲームに出られる可能性が高いということでゴールキーパーへ転向することには納得できないんです・・」

「そうか・・それがオマエの考えならば、強制的にゴールキーパーへ転向させるようなことはしない・・でも・・」

そんなふうに言葉を濁すチュンさんの態度に、もうチュンさんは、私に対する、フィールドプレイヤー(フォワード)としての期待が、大きく萎(しぼ)んでしまったと感じた。とても寂しかった・・

「それでも私は、まだフィールドプレーヤーとして頑張ってみたいと思います・・」

そんな言葉を絞り出し、職員室を出た。その私の言葉に、チュンさんは何も返事をしなかった・・と、思う。

■だらしないけれど、モティベーションも落ちていった・・

仕方のないことだった。

自分自身でも、日に日に「やる気」が失せていくのを感じていた。辛い・・

サッカー部の仲間とも、色々と話してみた。彼らは、異口同音に、「オマエは、とても上手いしパワーや高さもある・・これからもっと良くなると思うよ・・とにかく頑張れ・・」などと言う。

でも、それが彼らの本音でないことはヒシヒシと感じた。彼らもまた、運動量が足りない私が入ると、次のディフェンスが大変になると感じていたのだ。

そのことについては、自分自身も、情けなさでアタマのなかが一杯になることがあった。

もっとも辛かったのは、運動量の少なさが、私の「意志の弱さの現れ」だと思われているのではないかと勘ぐらなければならなかったことだった。

ちょっと複雑な表現になったしまった。

要は、チームメイトに、私が怠け者だと思われることに耐えられなかったのだ。もちろんチームメイトが、そんな風に私のことを見ていたかどうかは不明だけれど・・。

そこには、チームメイトは、心を許せる仲間である半面、レギュラーポジションを争うライバルでもあるという現実もあった。

それが、チーム内の争いごとに発展しないのは、もちろん、鈴木中という「絶対権力者」がいるからだ。そう、チュンさん「だけ」が、出場メンバーを決められるのである。

だから、レギュラー選手とベンチ選手との間には、「誰がプレーするのか・・」というテーマに関する争いなど起きようがなかった。

それは、唯一、チュンさんの「マター」であり、選手たちにとっては、それが「アンタッチャブル」であるからこそ、争いの原因にはなり得ないのである。

そう、全てのスポーツチームがそうであるように・・

とはいっても、そこには、友情とライバル関係という微妙な関係性があるのも確かな事実だ。

人間同士の微妙な関係性・・

それもまた、サッカーが、子供を大人にし、大人を紳士にするスポーツと言われる所以なのだ。

そして「その時」の私にも、そんな微妙なチームメイトとの関係性に、何かしらの偏りが出ていると感じられ、それが心の負担になりはじめていた。

そして・・

■退部するという決断・・

その頃(高校二年の夏休み前あたり)には、サッカー部のトレーニングが、まったく面白くなくなっていた。

それは、自分のなかから湧き出てくるべき向上心を失ってしまった・・ということなのかもしれない。そう、セルフモティベーション機能が、まったく動かなくなってしまったのだ。

いや・・、サッカー自体は、どんどん好きになった。でも、サッカー部のトレーニングは、苦痛以外の何ものでもなくなっていたのだ。

悶々とする日々。そのことが、決定的な要因だった。

そしてある日、決断した。サッカー部を辞めよう・・

(つづく)