The Core Column(14)__ 進化しつづけるドイツサッカー

■ドイツサッカーに、美しさと勝負強さの高質なバランスが復活している・・

「そりゃ・・イタリアを相手に、これくらいスキルフルで創造的なサッカーが展開できれば、御の字なんじゃネ~か!?」

「何たって、プランデッリに率いられて、ポジティブにイメチェンしている今のイタリアが相手なんだからな・・あれほどの立派なサッカーが展開できたわけだし・・とにかくドイツサッカーは、一時期の最悪イメージからは完全に抜け出せたよな・・」

2013年11月、日本代表がベルギーへ遠征し、彼の地で、オランダ代表、ベルギー代表と、つづけて二つのテストマッチを行った。

それに合わせ、私も10日ほどヨーロッパ(ドイツ)に滞在し、友人のプロコーチ連中と旧交を温め、情報と意見を交換した。

そのとき、タイミングよく(ゲンクでのオランダ対日本戦の前日に)、ドイツ代表が、イタリアとのアウェー親善マッチをミラノで戦ったのだ。

イタリア代表のスーパーGKブッフォンは、その一戦を、欧州ダービーと呼んだ。たしかに、様々な意味で、世界の注目を浴びたゲームだった。

その試合を、友人宅にコーチ連中が集まり、ワイワイガヤガヤと寸評をぶつけ合いながら観戦した。とても楽しい時間だった。

そのゲームを観ながら、まず私の脳裏に浮かんだのは、1970年代からのドイツサッカーの(そのイメージの)浮き沈みを体感していることもあって (!?)、目の前で展開されているゲーム内容に対する評価じゃなく、ドイツサッカーの「創造的なイメチェン」というキーワードだった。

もちろん友人のコーチ連中にしたら、パワーとスピードだけじゃなく、テクニックやスキル、そして戦術に「も」長けた総合力のドイツ・・なんていう「そのゲームに対する印象」を期待していたんだろうけれど・・

まあヤツらにしたら、「ドイツも上手くなったよな~・・」なんていうニュアンスの私の発言は、まったく受け容れらるモノじゃなかったに違いない。

もちろん、本当に表現したかったニュアンスは・・

・・いまのドイツは、やっと昔のようなハイレベルの「巧さ」を復活させた・・そして伝統的な勝負強さも含め、世界サッカーの重要なリーダーの一人としての存在感を取り戻したよな~・・なんていうものだったのだけれど・・

ひねくれている!? スミマセン・・

とにかく、そのイタリア戦でドイツが魅せた「立派なサッカー」という印象を吹き飛ばしてしまうほど強烈な、これまでの40年間にドイツサッカーが経験した、様々な「紆余曲折」が呼び覚まされてしまったのだ。

そして、「それ」があったからこそ、今のドイツがある・・のである。

■ドイツサッカーのイメージの変遷・・

「オレたちだってテクニカルで美しいサッカーができるさ・・そう、1972年のヨーロッパチャンピオンチームのようにな・・とはいって も、たしかに今は、フィジカルの強さばかりが前面に押し出される戦術偏重サッカーに陥っているのは否定できないけれど・・」

国際会議で久しぶりに出会った旧友のプロコーチが、そんなことを言っていた。

2002日韓ワールドカップが終演を迎えた翌月、ドイツのザールブリュッケンで、ドイツサッカーコーチ連盟が主催するコーチ国際会議が開催された。私も招待され、パネルディスカッションのパネラーとして壇上に立った。

ドイツが準優勝したこともあって、参加者は1000人を超えるなど、大盛況。私も、多くの旧友と再会を果たした。

やはりワールドカップのパワーはすごい・・と思う半面、全体的な会議の雰囲気が、とても「冷静」だとも感じていた。参加者の口が一様に重かったのである。

それは・・

たしかに、ドイツ代表が予想に反して決勝まで駒を進めたことに対する素直な喜びはあった。でも、それよりも、(その頃の!)ドイツが抱えていた「美しさに欠けたパワーサッカー」というイメージを払拭できていないというジレンマによる心の負担の方が大きかったのである。

そう、ワー ルドカップ決勝という世界が注視する舞台において、世界のクリエイティビティー(創造力)を代表するブラジルと対戦したからこそ・・

この、ドイツサッカーが内包する「イメージの変遷」というテーマについては、以前、サッカー批評やナンバーなどの雑誌に投稿した文章をまとめた長~いコラムを、備忘録(データベース)として、私のHPにもアップしてあるから、「そちら」も参照していただきたい。

そこに詳しく書いたけれど、70年代の、美しさと強さが「ハイレベルに共存」していたドイツサッカーのイメージが、80年代、90年代と、時を経るに従って、徐々に「硬化」していったのだ。

そう、「勝負強いだけのパワーサッカー・・」というイメージ。

そんなドイツサッカーのイメージが、世紀の変わり目あたりからの15年で、再び大きく(そしてポジティブに)変容していったのである。

パワーサッカーから、優れた創造性も内包する「美しく勝負強い」サッカーへ・・

サッカーに携わる者は、例外なく、「美しく勝つこと」を志向している。

それは、サッカーが内包する、普遍的な哲学テーマなのである。

■ドイツ再生のムーヴメント・・

たしかに、1990年イタリアワールドカップ、1996年のUEFA欧州選手権では優勝を果たした。でも、そのイメージは、相変わらず「ロボットのような勝負優先のロジカルサッカー・・」という域を超えるモノじゃなかった。

当時、あるドイツ代表選手が、吐き捨てるように、こんなことを言うのを聞いた。

「たしかに今のオレ達には美しいサッカーは期待できないさ・・でも、勝っているんだぜ・・オレ達のサッカーをロボットのようだなんて揶揄するヤツらに言ってやりたいよ・・そんなオマエたちは、オレ達に勝てるのかってね・・それじゃ単なる負け犬の遠吠えじゃネ~か・・」

その「オマエたち・・」が誰を意味していたのかは分からない。でも、代表選手のなかにも、確かに、様々なフラストレーションが内在していたのである。

たしかに、彼の言葉どおり、勝っている間はよかったけれど、成績がともなわなくなったら、もう最悪だ。

そう、1996年の欧州選手権は勝ったけれど、その2年前、1994年のアメリカワールドカップでは、それまでは負けることなど想像さえできなかったブル ガリアに足許をすくわれ、1998年フランスワールドカップだけではなく、つづく2000年ヨーロッパ選手権でも惨敗を喫したのである。

そして彼らは、やっと覚醒した。いや、動かざるを得なくなったのだ。

このままでは取り返しがつかないところまで成り下がってしまう・・

そして、90年代の半ばあたりから改革がはじまっていた若手育成システムを本格的に加速させることになったのである。

それぞれの(ライセンスを与えられている)プロクラブが運営するユース育成センターの強化だけではなく、全国300箇所に張り巡らされたタレント発掘ネットワークの活性化にも最大限のエネルギーを注入するようになったのだ。

またそこでは、育成段階での問題点も指摘されるようになった。

そう、オーバーコーチングという「体質的な問題点」・・

特に攻撃では、強烈なパワーに支えられた組織的なパスプレーで攻め上がるというロジックサッカーが強調され過ぎることで、選手たちの創造性の発展を妨げているのではないか・・というディスカッション「も」盛んに行われた。

その頃の、ドイツサッカーコーチ連盟主催の国際会議におけるメインテーマは、タレントの育成に集中していた。

私は、そのプロセスを「マインドの解放・・」と表現していた。

とにかく、21世紀に入ってからのサッカーコーチ国際会議では、テクニック(スキル)トレーニングや、組織プレーと個人勝負プレーのバランス、またコーチ は、選手たちの創造性をいかにして伸ばしていくのか・・等といったテーマを中心に活発なディベートが展開されていたのである。

■子供たちに「自由」を取り戻させなければ・・

あっと・・

そこでは、ストリートサッカーを(そのエッセンスを)いかに、クラブでのレギュラートレーニングに採り入れていくのか・・というディスカッションも、活発に行われたっけ。

世界中で、コンビュータゲームやその他の娯楽など、生活が内向きになっている子供たち。特に先進国では、ストリートサッカーが消滅して久しい。

そこにこそ、「自分たちで工夫しながら、サッカーを(その自由さを!)とことん愉しむ・・」という、サッカーの本質的なエッセンスが詰め込まれているのに・・

主体的にサッカーを(その自由さを!)とことん楽しむ機会がなくなってしまったのだ。そこで失われたマイナス要素には、ものすごく大きな意味が内包されていた。

そしてクラブでは、自分の「やり方」に固執し、それを強要するコーチが手ぐすね引いて待ち構えている。例によってのオーバーコーチング・・

それでは、ユース世代の創造性が効果的に進化するはずがなかった。

そんな体質的な問題点を指摘しつづけたのが、(日韓ワールドカップでドイツ代表を率いる予定だった)クリストフ・ダウムであり、ドイツサッカー協会で、ク ラブの現場と協会マネージメントの間でコーディネイター(ファシリテイター)として手腕を発揮したマティアス・ザマー、はたまたプロコーチ養成コースの総 責任者エーリッヒ・ルーテメラーといった強者たちだった。

私は、そのプロセスにおけるディベートの中身を知っている。ものすごく「濃い」、本当にあらゆる視点から湧き上がってくる熱情のぶつかり合いだった。

私は、今でも、それ以上の学習機会を経験したことがない。

■地方コーチたちの主体的な行動力もあった・・

ロジックに偏りすぎていたユース育成の方向性・・

(当時の)リーダーたちは、「それ」を、ロジック(戦術的な規律プレー)とクリエイティブ(創造的なアイデアプレー)のバランスを見つめ直す方向へと回帰させていった。

「そうなんだよ。それまでは、どうしても組織プレーを強調し過ぎる傾向が強すぎた。それに対して、それでは隠れている才能を見出して発展させるのは難しいというディスカッションが活発に行われるようになったんだ」

プロコーチ養成コースの責任者、エーリッヒ・ルーテメラーがチカラを込めて語っていたっけ。

そこでは、コーチたちのバランス感覚の重要性も見直され、その方針がドイツ全土に伝えられた。

そして「それ」をベースに、地方は地方で、その方向性に則ったカタチで、自分たちなりにディベートを深めていったのである。

そこで「も」結局は、コーチたちの主体的な判断と決断、そして行動力と創造力&想像力がモノをいった。決して彼らは、「右ならえ右~っ!!」ではなかったのである。

そんなだったから、心理マネージメントも含めたコーチングの方向性が「正しく」調整されていったのは当然の成りゆきだった。

そして、だからこそ、若い才能が発掘され、本当の意味でチカラを付けられるだけの環境が整うようになったのである。

■異文化がミックスするプロセスでの相乗的なプラス効果・・

またそこには、様々な「異文化」を効果的にミックスさせられた・・という側面「も」ある。

いまのドイツ代表でも、トルコ系のエジルやギュンドアン、チュニジア系のケディーラ、ガーナ系のボアテングなど、さまざまな「文化」が根付いている。もちろん東欧系のプレイヤーを入れれば、「異文化の要素」は、もっと増える。

大事なポイントは、たしかに彼らのほとんどはドイツ生まれではあるけれど、実際の日常生活では、常に「異文化」にも接しているという事実なのだ。

そして、ドイツ代表チームの日常でも、何らかの「文化的なコンフリクト(葛藤)」を体感せざるを得なくなる。

組織プレーと個人勝負プレーの極限バランスが求められるハイレベルなサッカー。その一つひとつのプレー内容で、「文化的感性」の微妙な行き違いが生じてもおかしくないのである。

もちろん「そこでの心理マネージメント」を誤れば、チームの雰囲気が微妙にギクシャクしていく要因になりかねない。

だからこそチームは、それらの微妙に異なる「異文化の感性」を擦り合わせ、「次につながる妥協点」を探る努力を怠るわけにはいかなかったのだ。

そうした微妙な心理マネージメントプロセスにも、チームが進化していくための「相乗的プラス効果」が内包されていたに違いない。

■サッカーを発展させるのは、やはり地道な努力しかない・・

そして、何といっても、(前述したように)様々なレベルのコーチたちが、「納得」して、テクニックを中心にユースを育成していったというバックボーンが決定的に重要な意味を内包していた。

この、「コーチたちも納得していた・・」ということが、ものすごく大事な要素だったのだ。

コーチは、一国一城の主。彼らが、「心から納得」しなければ、結局「コト」は効果的に進んでいかないのである。

また、前述した「ドイツサッカーの再生者たち」の努力によって、レギュラーなトレーニングに、ストリートサッカーの「エッセンス」を採り入れようという風潮も出てきた。

そう、選手たちの主体性を極限まで「求める」方向性だ。

コーチは、トレーニングの目的とヒントを与え、後は、選手たちが率先してアイデアを練る。そんなトレーニング光景が、至るところで観察されるようになっていったのである。

また、最近のドイツサッカーで目立つ優れたテクニック。それを進化させるのには、コーチの「忍耐」が欠かせない。

ボールを失ってしまう危険が大きい「タメ」やドリブル勝負を抑え、シンプルなパスを強要した次の瞬間には、選手たちのマインドは「殻に閉じこもって」しまうに違いない。

失敗を積み重ねることでしか、技術は進化しないのだ。

だからこそ、絶対的権力を一手に握っているコーチは、自分たちに与えられた目的を意識し、それを達成するために必要なファクターを常に視野に入れておかなければならないのである。

地道な(忍耐と)努力・・それである。

私は、過去40年間、様々なドイツサッカーの変遷を体感している。

だから逆に・・

・・ドイツサッカーは、失敗と成功を繰り返した長い歴史を通し、何が大事で、何がコトを停滞させるのかという「深いメカニズム」をしっかりと理解できている・・

・・まあ、ドイツ人のことだから、しっかりと論理的にも分析し明確に記録できている・・なんてことも言えるかな!?・・

・・そして、だからこそ、彼らほど「地道な努力」の大切さを体感しているヤツらはいない・・

・・ってなことも思っている筆者なのであ~る。