Biography(13)__サッカーをはじめた頃のエピソード(その1)

(今回から2、3回、サッカーをはじめた頃のエピソードを・・)

■仙台から引っ越し、転入することになった藤沢市立長後中学校・・

「キミは背が高いし、パワーもありそうだから、ウチのバレー部に来なさい・・」

忘れもしない。私が卒業した神奈川県立湘南高等学校、入学の日だ。

入学式が終わった後からはじまった、各クラブの勧誘合戦である。

そんなことは経験したことがなかったから、ちょっと戸惑ったモノだ。けれど・・

私は、そのときは既に、どのクラブに入るのかを心に決めていた。そう、サッカー部。

仙台の台原中学校時代は、バレーボールに熱中していた。そんな私が、どうしてサッカーにのめり込むようになったかって・・!?

そこには、こんな経緯があったんだよ・・

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仙台で過ごした2年間。私は、仙台市青葉区にある台原中学校で、2年生の最後まで、エースとしてバレーボールに没頭していた。

でも、中学三年のときに転校した先の(神奈川県)藤沢市立長後(チョウゴ)中学校には、男子のバレーボール部はなかった。女子のバレーボール部が、県内きっての強豪だったにもかかわらず・・だ。

そのことを知ったときの落胆の大きさは今でもしっかりと思い出せる。でも、そのことが私とサッカーを引き合わせてくれたのだから、それは、何かしらの運命的な偶然とも思えてくる。

もちろん私は、長後中学校でも、どうしてもバレーボールがやりたかった。

だから、学校には認められなかったけれど、自ら部員を募(つの)って、校舎の裏手でトレーニングの真似事をはじめるなど、先生を困らせていた。

そんななか、サッカー部を指導されていた鵜飼典三先生が、私の背の高さをみて(当時で既に180センチ近くあった!)、どうしてもゴールキーパーをやって欲しいと勧誘してきたんだ。

もちろん鵜飼典三先生は、私が仙台でバレーボールをやっていたことを知っていた。

要は、ジャンプしたとき、「もっとも高い空中ポイント」でボールを掴む感覚に優れているに違いないと思ったんだろうね。

そのときの長後中学校は、神奈川県の大会で優勝するなど、とても強かったし、鵜飼典三先生も、とても魅力的なパーソナリティーだった。

だから、少しは心を動かされたけれど、でも、「やる気」が沸き立ってくるようなことはなかった。

何せ、自分で「立ち上げた」バレーボール部に(もちろん部活は学校公認ではなかったけれど・・)既に数人の部員が集まってきていたし、サッカーをやるのだったら、フィールドプレイヤー以外に興味がなかったのだ。

とはいっても・・

そう、当時のバレーボールは九人制。その人数がまったく揃わない状況じゃ、学校側にしても積極的にクラブとして認めるわけにゃいかないだろうし、数人しかいない「非公認クラブ活動」で、もし事故でも起きたら・・

それは、「事なかれ主義」の学校が許容できることじゃない。

まあ、サッカー部顧問の鵜飼典三先生は、カゲでサポートしてくれたけれどね。でも・・

「とにかく出来るところまで頑張れよ・・でも、ダメだったらスッパリと諦めてウチ(サッカー部)に来いよな・・」

多分、鵜飼先生には見えていたんだよ。そんなに長くは持たないってね。

もちろん中には、私の働きかけに(鵜飼先生のように)同調してくれた先生もいたけれど、でも結局は、「事なかれ主義」が大きな障害になった。

たぶん、大半の先生方は、私のことを、「困った転校生がきたな~・・」なんて思っていたはず。

まあ、学校という、常に安定しているべき(!?)建前組織のことだから、私の活動が、生徒のインテリジェンスとパーソナリティーの育成という、学校がもつべき本質的な目的に沿ったモノであるにしても、自ら進んで波風を立たせようなんていう先生など、いるはずがない。

もちろん当時の私が、そんな「本音の事情」まで思いが及ばなかったのは当たり前。だから、ネガティブな態度に終始する先生方を無視し、校舎の裏手で練習をスタートしたのだった。

■でも、結局チャレンジが長続きすることはなかった・・

部員は、最初は、3年生だった自分も含めて5人(下級生が2人)。でも、1人抜け、2人抜けて、最後は3人だけになってしまった。

たぶん、抜けていった部員たちは、先生の働きかけに折れたんだろうな。

とにかく、我々の活動は、学校全体からプレッシャーを受けていたんだよ。でも、決してギブアップしなかった。だから校長先生とサシで話し合うところまで行ってしまった。

校長先生の説得内容は書くまでもないし、私の主張も、言わずもがなだったわけだけれど、結局は、他の2人もバレーボール部から離れていき、私一人が取り残されることになってしまった。

そのときは、本当に落ちこんだ。

仙台という「田舎」から転校してきた「異質な」生徒が、友達もいないなか、学校というクローズドの(閉鎖された)組織のなかで、先生と学校の意向に反するチャンレンジを立ち上げた。

そして、一敗地にまみれた。

そのときは、別に、学校(社会的な権力!?)に対抗して、自分という存在の意義を「主張」しようとした・・なんていう大それたことじゃなく、単にバレーボールがやりたかっただけだったんだ。

当時は、バレーボールがホントに好きだったんだよ。

仙台の台原中学校でも、顧問の先生がいないかな(もちろん形式的には1人いたけれど・・)、エーススパイカーだった私が中心になって、様々な工夫をしながら強くなった。

そこでは、選手たち全員が協力し合った。

もちろん、たまには、楽をして上手くなりたい(ハードなトレーニングをサボりたい!?)なんていう雰囲気が支配しそうなこともあったけれど、チームの意志が、自分たちしかいない・・ということで一つにまとまっていたから、そんな後ろ向きのマインドは、すぐに矯正された。

みんな、具体的な希望と目標に突き動かされていたんだよ。

当時の仲間は、私と同様に、そのときのことを明確に覚えているに違いない。全員が、自らの主体的な努力によって進化していることを誇りに感じていたはずなんだ。

そして実際、そんな自負をベースに、ポジティブな経験(まあ・・成功体感)を積み重ねていった。我々のなかには、ものすごい発展モティベーションが満ちあふれていた。

仙台時代、私にとってバレーボールは、自分の存在(意義の)証明でもあったんだと思う。だから、絶対に「それ」を失いたくなかった。

でも結局は・・

■鵜飼典三先生にも、心から感謝している・・

そう、結局は、そんな私のチャレンジは潰れて(されて!?)しまった。

そのときは、自分自身の人格が、社会から(まあ・・先生や生徒たちからも!?)否定された・・とまで感じていたことを今でも思い出す。

そんなふうに落ちこんでいたときに、その「重い気持ち」を親身になって受け止めてくれたのが、サッカー部顧問、鵜飼典三先生だった。

そのとき長後中学校は、既に、3年生にとっては最後となる神奈川県の中学生大会で優勝していた(いや・・準優勝だったかもしれない・・記憶は定かじゃないけれど、とにかく鵜飼典三先生は、素晴らしい仕事を成し遂げたんだよ・・)。

ということで、3年生は、現役から引退し、クラブ活動の中心は2年生へと移っていたんだ。もちろん鵜飼典三先生にしても、もう私をゴールキーパーとして勧誘する意味などなかった。でも・・

鵜飼典三先生は、子供の心を、本当に深く理解していた。

ここで、私たちの会話を正確に再生するのは難しいけれど、とにかく彼が、聞き上手(話させ上手)だったのは確かなことだった。

そして、タイミングを見計らって、私の「人格」を心の底から認めるような一言を投げるんだよ。

もちろん、男子バレーボール部を立ち上げようとしたチャレンジ精神に対するレスペクトも含めて・・ね。私が、心を動かされないハズがなかった。

その鵜飼典三先生だけれど、昨日、長後中学校サッカー部OBで、湘南高校サッカー部の先輩でもある伊通元康さんから、一昨年に他界されたと聞いた。

それを聞いたとき、鵜飼典三先生との心温まる「触れ合い」の記憶が、勢いよく吹き出す間欠泉のごとく甦(よみがえ)ってきたものだ。

「そのとき」は、本当にありがとうございました。安らかにお休みください。

合掌・・

■その鵜飼典三先生が、サッカーを知るキッカケを与えてくれた・・

「オマエさ~・・スポーツはバレーボールだけじゃないぞ・・まあ、今さらだけれど、受験勉強だけじゃ身体に良くないから、スポーツで汗をかきたかったら、一度サッカー部の練習に顔を出したらどうだ・・」

鵜飼典三先生から、そんな誘いを受けていた。でも・・

同じような誘いは、クラスメイトの白石からも受けていた。彼は、才能系の選手で、サッカー部でも中心選手の一人だった。でも・・

でも、やっぱり、サッカーに興味が湧かなかったのだ。それよりも、自分のアイデンティティ(誇り)の拠り所であるバレーボールの方が楽しかった。

だから、女子バレーボール部の練習に参加させてもらうことで汗をかいていた。

女子バレーボール部を指導する顧問の先生だけれど、実は、私がトライした男子バレーボール部開設を密かにサポートしてくれていた。そんなこともあって、その先生のアシスタントとして、女子の練習にかなり貢献したと自負している。

まあ、「周り」は、そんな私のことを、奇異な目で見ていただろうけれど、そんなことは、まったく気にならなかった。

ただ、クラスメイトの白石(前出のサッカーの天才プレイヤー)は、しつこく、サッカーに誘ってくれた。もちろん鵜飼典三先生も、そのバックにいたはずだ。

私は、彼らが、それまでのチャレンジを認めてくれていることを感じていた。だから、本当に素直に、彼らの言葉に耳をかたむけることが出来た。

そう、人間的な関係の絶対的なベースは、互いの人間性(人格)を、本音の心から「認め合える」ことなのだと思う。

もちろん私は、成績優秀なだけではなく、人間としてもサッカーでも周りからレスペクトされ、そして事あるごとに私のことを助けてくれた白石のことは、とても信頼していたんだよ。

そして、はじめて、白石とボールを蹴ることになったのだ。それは、秋口のことだった。

■ボールを止められるようになったことで、世界が一変した・・

鵜飼典三先生は、もちろん快く、我々が、後輩たちのトレーニングの脇でボールを蹴ることを歓迎してくれた。

もちろんゲーム形式のトレーニングに入ったら、白石は、そちらでプレーしたけれど(私は観戦)、最初は、彼と向かい合ってパスをすることからはじめたんだ。

最初は、少し離れてパスを回す。もちろんサイドキックでのパス交換だ。

実は、私は、仙台の台原中学校時代に、少しはボールを蹴った経験があった。

仙台市立台原中学校サッカー部の連中は、不良っぽいところがあって、学校の中では、ちょっと目立った(周りが引くような)存在だった。

でも私は、ヤツらとは、とても気が合ったんだ。

バレーボールコートの横でサッカーのトレーニングに励んでいた彼らは、バレーボールを強くしようと主体的に努力していた私たちのことを、しっかりと観察していたのだ。

私も、サッカー部のなかに親しくしていた村上がいたこともあったし、学校という「枠組み」のなかで、「オレ達は独立独歩だぞ・・」ってなギリギリの雰囲気を振りまくサッカー部のヤツらに好感をもっていたこともあった。

そんなことで、蹴ることについては、ヤツらから手ほどきは受けていたんだよ。

その時は、「まあ、うまく蹴飛ばせれば、スカッとはするけれど・・」なんていう印象しかなかったけれどネ・・

だから、長後中学校での白石へのパスは、ある程度は正確に蹴ることができた。でも、白石から返されてくるパスを止めるのは・・

そうそう、仙台の台原中学校時代もそうだった。蹴ることは出来ても、ボールをしっかりと止めることは、とても難しいと感じていたんだよ。

少しでも強いパスが返されてきたら、アサッテの方向に飛んでいってしまうし、それを取りに行くのも億劫(おっくう)だから、手を使ってボールを押さえたりもしたモノだった。

でも白石は、手を使おうとする私を制するんだよ。

「ダメだよ手を使って止めちゃ・・サッカーじゃ、手を使っちゃいけないんだ・・実は、それがサッカーの魅力でもあるんだよ・・とにかく、少しガマンして、ボールを足で止めようぜ・・」

「そんなこと言ったって、毎回、ボールを拾いに行くのも面倒じゃないか・・」

「まあ、そう言わずに、少しくらいズレたっていいじゃん・・足だけで止めてごらんよ・・」

白石にうながされ、そこからは、足「だけ」で、ボールを止めることにトライした。もちろん、うまくいかない・・

でも、何度かやっているうちに(何度失敗しても続けられたのは、まさに、白石に対するレスペクトがあればこそだった!)、徐々に、アサッテの方向へボールが転がっていってしまうことが少なくなってきた。そしてあるとき、ピタリと、足許にボールが止まったんだよ。

エッ・・!?

そのとき、ちょっとした感動があった。あんな強いパスを、足許で止められたぜ・・

たぶん、それこそが、私のサッカーキャリアが本当の意味でスタートした瞬間だったのかもしれない。

いや、今では、自信をもって、そう言える。

やっぱりサッカーでは、ボールを「止めること」こそが、全てのスタートラインなんだ・・ってね。

■そして、どんどんとサッカーにのめり込んでいった・・

それからは、受験勉強なんてそっちのけで、ヒマさえあれば、長後中学校のグラウンドでボールを蹴るようになっていった。

もちろん白石も、時間が許す限りつき合ってくれた。また週末には、近くに住むサッカー好きの白髪のご老人も参加してくれた。

人数が足りないから、パスを回す程度のことを繰り返していたのだけれど、とにかく、ボールをしっかり止められるようになってからは、サッカーが楽しくて仕方なくなったんだ。

そして、だから(サッカーが楽しくなってきたから!)なんだろうな・・、キックも、日進月歩で上手くなっていった。

一緒にボールを蹴ってくれるサッカー好きのご老人も、「アンタ・・サッカーの才能があるね・・こんなに短い間に、とても上手くなったじゃないか・・」なんて、おだててくれる。

たしかに、蹴ることについては、自信があった。

背が高かった(脚の絶対的な長さがあった)し、脚力もそこそこだったら、遠心力の関係で(!?)より強いボールを蹴ることが出来たんだよ。

だから、一緒にボールを蹴っている白石も含めた長後中学校のサッカー部OBから、「スゲ~ッ!!」なんていうお褒めの言葉まで飛び出しちゃう。

もちろん気持ち良くないはずがないし、そこには、サッカーへのめり込んでいく十分なモティベーションがあったんだよ。

その頃には、私が、神奈川県内の公立高校ではトップにランキングされる神奈川県立湘南高等学校を受験するのは既定路線になっていた。

いまでは廃止されているが、当時は「ア・テスト(アチーブメント・テスト)」と呼ばれていた、神奈川県内の公立高校への入学判定に用いられる学力テストで、それなりの成績を挙げていたのだ。

そして私は、サッカーでも名門の湘南高校で、本格的にサッカーに取り組んでいくことになったのである。

(つづく)