My Biography(15)__サッカーをはじめた頃のエピソード(その3)

■鈴木中先生(チュンさん)という勝負師・・

白石の教えもあって、私は、どんどん上手くなった(どんなボールでも、しっかりと止められるようになった!?)・・と思う。もちろん、素人から始めたにしてはのハナシだけれど。

そして、それに加えて、私には、特異なフィジカル的優位性もあった。

そう、背丈が、クラブのなかでもっとも高かったのだ。当時でも、すでに185センチに届いていたかもしれない。

そんな「高さ」というアドバンテージは、結局は諸刃の剣ということになってしまうわけだけれど、そのことについては(次回)後述する。

前回コラムで、チュンさんが志向するのは組織(パス&コンビネーション)サッカーだと書いた。

実際に湘南高校は、神奈川県でも、ずば抜けて頭の良い(スマートな)パスサッカーということで、周りから一目置かれていたんだ。でも・・

チュンさんのアタマの中には、チーム作りについて、明確なイメージがあった。

「基本線」は、あくまでも組織パスサッカーを貫いていく。

「それ」がうまく機能すれば、個人的な能力では他の強豪校に大きく溝を空けられているという不利を、十二分に補える。

そう、チュンさんには、組織サッカーさえうまく機能すれば、全体的なゲームの内容で大きく見劣りしたり、完璧に押し込まれるようなことはないと分かっていたのだ。でも・・

たしかにサッカーの全体的な「流れ」の内容では見劣りすることはないにしても、ゴールを入れて勝ち切る・・という視点では、才能ある選手を多くかかえている強豪校には太刀打ちできなかったのだ。

最後までパスとフリーランニング(ボールがないところでの人の動き)を有機的に組み合わせることで(そう・・高質なコンビネーションによって!)、決定的スペースを攻略するところまでは行けるだろう。でも、最後の勝負所では、どうしても個人の能力がモノを言うのだ。

湘南高校は、選手個々の足の速さとかパワー、はたまた、ドリブルや「タメ」といったテクニック(才能)面で、強豪校に決定的な後れを取っていたのだ。

たしかに全体的な「サッカー内容」では、周りから敬意を払われるような高質なプレーを展開できる。でも、「勝負」という視点では、やはり「最終勝負でのスパイス」が足りない。

そんな、ある意味では「サッカーの二面性」とも呼べるような「最終勝負のメカニズム」を熟知しているチュンさんだから、様々な手段を駆使して、サッカーの内容だけではなく、勝負強さ(結果)もアップさせようと躍起になった。

その最も重要な手段が、どんな才能でも「一つのことに秀でた選手」をピックアップし、その天賦の才を、チームの「勝負強さアップ」のために効果的にインテグレートする(組み込んでいく)ことだった。

チュンさんは、その「才能」を、勝負強さアップに「実効あるカタチ」で貢献できるように「効果的に変容」させていったのだ。

例えば、ドリブルの才能に恵まれた選手が入ってきたとしよう。

そうしたら、その選手が、ドリブル勝負を「より有利なカタチ」でブチかませるように、周りのチームメイトに最大限のサポート(要は、汗かきのハードワークだよね・・)をやらせたりする。

もちろんチュンさんは、どんな状況でも、そのドリブラーには個人(単独)勝負を要求する。

ビビる・・なんてことは許さない。チームのために、天から授かった才能を「全て吐き出す」ことに集中させるのだ。

そして周りのチームメイトに対しては、その選手のドリブル勝負が、いかに重要かを、分かりやすく説明し、彼らが心から納得して、そのドリブラーのために「汗かきのハードワーク」に精を出すように(心理的に!)マネージするのである。

そんな、チュンさんが目を付ける才能には、足の速さだとか、パワーとか、高さとか、色々なモノがあった。

いま考えたら、そりゃ、見事な勝負師ぶりだったと思う。

■そしてチュンさんが、私の「高さ」に目を付けた・・

私は、ヘディングが強かっただけじゃなく、その頃には(まあ一年生の秋頃からかな・・)、トラップ(ボールを止めること)だけじゃなく、キックもかなり上達していた。

身体が大きかったから、キックのパワーも群を抜いていたんだよ。

プレースキック(ボールを置いた状態で蹴るキック)でも、50メートルは優にブッ飛ばせたし、シュートにしたって、誰もが驚く強烈なゴールをブチ込んだりもした。

私は、そんなパワーや高さだけじゃなく、ボールをしっかりと止め、ある程度正確にパスを送れるだけでも、湘南高校の特長であるパスサッカーにとって「も」少しはプラスになれる選手だと自負していた。

要は、周りの足手まといにならないレベルまで、効果的なプレーができるまでに成長していた(そう自負していた)ということだ。

そんなある日、チュンさんに、職員室に呼び出された。

「次の練習試合で、オマエのことをセンターフォワードで使ってみようと思う・・そのことをしっかりと意識して練習に励むように・・」

嬉しかった。一年生のなかでは、まだ数人しかゲームに出ていなかった頃だったから、希望に胸をふくらませたモノだ。

でも・・

「オマエは、余計なことをせず、タテパスを受けたら、すぐにサイドのゾーンへパスを回し、そしてすぐに相手のゴール前のゾーンへ入っていけ・・そこへハイ ボールが送られてくるから、それを周りで走り込んでくる味方へ、ヘディングで落とすことをイメージしろ・・もちろん、守備にも戻らなければダメだぞ・・」

それが、試合前にチュンさんから指示された内容だった。

■自分が「走れない」ことを自覚せざるを得なかったデビュー戦・・

そして試合。

もちろん、相手がいるわけだから、簡単にボールを止められないし、チュンさんが言うようなバックパスだって簡単には送れない。

それでも、時間が経つにつれて、ある程度は安定してプレーできるようになっていったことを思い出す。

身体が大きかったから、アタックを仕掛けてくる相手を、身体全体で抑えることでボールをキープし、周りの味方へわたす。そして自分は、相手ゴール前のゾーンへ入っていくのだ。

何度か、ハイボールをヘディングで競り合い、それに勝って味方へパスを出せたシーンもあった。でも・・

サッカーでは、「走ること」は、とても複雑なアクションの組み合わせだ。

ジョギングのような走りもあるし、急激なダッシュから全力疾走へ・・といったスピードに変化をつけた走りもある。また常に、走る方向を変化させなければならないということもある。

攻撃では、フェイントをかけて走る方向やスピードを変化させ、マークしてくる相手を振り切らなければならないし、逆に守備では、攻め上がる相手の、走るスピードや方向の変化に反応して追いかけなければならないシーンもある。

とにかくサッカーでは、「走ること」自体が、とても複雑な動きの組み合わせなのだ。

生理学的には、有酸素運動と「無酸素」運動が、複雑に絡み合っている・・とも言える。

練習では、長距離走とか、決められた直線コースをダッシュするといった、単純なコンディショントレーニングが主体だけれど、実際のゲームでは、とにかく複雑な動きが求められるのである。

そして私は、そんな実戦で、ゲームがはじまって10分もしないうちに、完全にグロッキー状態になってしまった。

動きがとても緩慢になってしまっただけではなく、相手にボールを奪われても、まったくといっていいほど「追いかけられない」のだ。

でも、味方からパスが回されてきたら、そこそこ安定したプレーはできたし、相変わらず、ゴール前へ送られてくるハイボールに対して、効果的なヘディングの競り合いもできていたと思う。

でも、ハーフタイムに、チュンさんから交替を言い渡された。

もちろん納得はしなかったけれど、監督の決定だから、絶対だ。

そして後日、チュンさんから、こんな説明を受けたのである。曰く・・

・・ボール絡みじゃ、プレーの内容は良かったと思う・・でも、オマエは、走れないな~・・20メートルくらいダッシュしたら、そこで完全に足が止まっちゃうだろ・・回復にも時間がかかるよな・・自分では、どんな印象だったんだ?・・

「はい・・たしかに苦しかったです・・でもボール周りでは、ある程度は効果的にプレーできたとは思っているのですが・・」

「そうだよな・・ボールに絡めればな・・でも運動量が少な過ぎるから、効果的にボールに触れていなかった・・あれじゃ、いないのと同じと言った方がい い・・もっと走り回って、フリーでタテパスを受けられるようでなければ、良いプレーはできない・・またディフェンスでも、チームに貢献できていなかったし な・・」

・・そう・・たしかに、そうだ・・オレは十分に走れていなかったし、効果的なプレーもできていなかった・・

チュンさんの言葉に、そう反省せざるを得なかった。

■チームメイトのなかで、自分のプレイヤーとしてのイメージが固まっていく・・

湯浅は走れない・・

いつしかチームのなかで、私について、そんなイメージが固定しはじめていた。もちろん、デビュー戦から、2~3試合プレーした後のことではあるけれど・・

要は、何度かフルスプリントをつづけると、急激に「息が上がって」しまうのだ。そして、「ハ~ハ~・・ゼ~ゼ~・・」と、ヒザに手をついてしまう。

そして、もちろん、ゲームに投入されることもなくなった。

悔しいったらありゃしない。でもそれは、確かな事実だった。

いくら居残ってランニングのトレーニングを積んでも、持久力がアップする気配さえない。逆に、疲れ切ってしまい、帰宅してからは、まったく何もできずにベッドに入るだけ・・なんていう、落ち込んだ状態がつづいたのだ。

あの頃は、本当に気が滅入る毎日だったけれど、そんな状態では、チュンさんもプレーさせるわけにはいかなかっただろう。

それだけじゃなく、チームメイトから、「ヤツは怠け者ではないのか!?・・やる気さえあれば、走れるようにならないはずがないのに・・」という目で見られているのではないか・・等といった疑心暗鬼にさえ陥った。

頑張れば・・強い意志さえあれば・・

それが、大方の評価ベースだったと思う。

でも、「事実」は違った。そのことは、ドイツへ留学し、母校(国立ケルン体育大学)の生理学研究所の教授と知り合いになってから知った。

その「事実」を知ったとき、心の奥底から溜息が出た。

(つづく)