My Biography(47)_戦友、奥寺康彦(オーストラリア発_その5)・・(2015年1月29日、木曜日)

■オットー・レーハーゲル・・

「オクは、本当に頼りになるプレイヤーなんだよ・・ヤツほどの頭脳的なハードワーカーは経験したことがない・・とにかく、チーム全員が、ヤツのチーム貢献度をとても高く評価しているのさ・・」

当時ヴェルダー・ブレーメンを率いていたドイツ希代のプロコーチ、オットー・レーハーゲルが、チーム宿泊先だった東京プリンスホテルを訪ねた私の目をのぞき込むように熱く語った。

彼は、長くヴェルダー・ブレーメン監督を務めるなかで、ブンデスリーガを二度も制しただけではなく、ドイツカップ(日本の天皇杯)に二度、そしてUEFAカップウィナーズカップでも一度、頂点に立ったことがある。

また、1996年から2000年まで指揮を執ったカイザースラウテルンでも、チームを2部から1部へ引き上げた(ブンデスリーガ2部優勝!)そのシーズンに、ブンデスリーガの1部でも優勝を遂げるという離れ業(はなれわざ)もやってのけた。

その後ギリシャ代表監督としても、2004年にUEFA欧州選手権(W杯のヨーロッパ版=ミニワールドカップと呼ばれる)で頂点に立った(ギリシャの優勝はこの1回のみ)。

1986年。そのオットー・レーハーゲルが、まだヴェルダー・ブレーメンを率いていたときのことだ。

ブンデスリーガでの奥寺康彦のキャリア終了を記念して、ヴェルダー・ブレーメンがキリンカップに参加し、日本代表やパルメイラス(ブラジル)を抑えて優勝を遂げた。

もちろん奥寺康彦も、ブレーメンの一員として大活躍し、日本ファンをうならせた。

私は、そのオットー・レーハーゲルを、チームが宿泊するホテルに訪ねたのだ。場所は、当時の東京プリンスホテル。

その年、私は、読売サッカークラブと袂を分かつことになったのだが、当時の現場パートナー(監督)だったルディー・グーテンドルフから、オットー・レーハーゲルを紹介されたのだ。

私が東京プリンスホテルへ訪ねていくと、彼は、満面笑みで迎えてくれた。ルディー・グーテンドルフと彼が、とても良い関係だったことが伺える。

そして2時間。奥寺康彦の話題を中心に、サッカーのことを語り尽くした。それは、私にとって、本当に素敵な学習機会だった。

■奥寺康彦とオットー・レーハーゲルの出会い・・

あっと・・、奥寺康彦にハナシを戻そう。

1978年にブンデスリーガ優勝を果たした「1.FC.Koln」。

その立役者の一人として、その後もチームの中心で活躍してした奥寺康彦だったが、1980年に、ヘネス・ヴァイスヴァイラーがチームを去り、後任に、カールハインツ・ヘダゴットが来たことで、彼はチームの構想外になってしまう。

そして、そのシーズン途中に、当時ブンデスリーガ2部だった(現在は、細貝萌と原口元気が所属する)ヘルタ・BSC・ベルリンへ移籍した。

もちろんヘルタ・ベルリンは、ブンデスリーガ1部への昇格を目指していたのだが、その戦力強化のために、奥寺康彦に白羽の矢を立てたというわけだ。

結局ベルリンは、1部への昇格を逃してしまうことなるのだが、そのベルリンと競り合って1部昇格を決めたのが、オットー・レーハーゲル率いるヴェルダー・ブレーメンだった。

その(2部での)シーズン。オットー・レーハーゲルは、ベルリンへ移籍してきた奥寺康彦に注目していた。彼が秘める、ある「特別な能力」に心を惹かれていたのだ。

そしてオットーは、ブンデスリーガ1部への復帰を果たすのと同時に、ヘルタ・ベルリンから、奥寺康彦を引き抜くことに成功するのである。

「そうなんだよ・・オレは、オクの特別な才能を高く評価していたんだ・・」

「ヤツは、テクニックとスピードを兼ね備えた上手いプレイヤーだったけれど、オレは、ヤツのインテリジェンスの高さも評価していたんだよ・・それは、サッ カー選手として、もっとも大事なファクターかもしれない・・そう、考えながら、率先して厳しいハードワークも実行できる選手・・」

私が、東京プリンスホテルにオットー・レーハーゲルを訪ねたとき、懐かしそうに、そして力を込めて、当時の奥寺康彦が内包していた魅力を語ったものだ。

「要は、上手い選手にありがちな、攻守にわたる汗かきのハードワークを嫌がらないんだよ・・逆に、積極的にチームメイトのミスをカバーするために守備へ走ったり、攻撃でも、率先して、ボールがないところで動いてスペースを攻略する主役を演じたりするんだ・・」

「とにかくオレは、そんなオクの、誰に言われることもなく、考えて実行するチカラをとても高く評価していたんだよ・・そして、その判断は、とても正しかったっちゅうわけだ・・」

その言葉どおり、ヴェルダー・ブレーメンでの奥寺康彦は、守備を主体に、攻撃でも、チーム(ハード)ワーカーとして素晴らしい存在感を発揮しつづけ、まさに完璧な「オールラウンダー選手」として君臨することになる。

「オクは、どんなポジションでも、すぐに自分のモノにしてしまう・・ヤツ一人で、選手三人分の仕事をこなしてくれるっちゅうわけだ・・そりゃ、監督にとって理想的な選手だよな・・」

オットー・レーハーゲルは、そう奥寺康彦を誉めたたえた。

「へ~、そうなんだ・・オットーが、そんなことを言ってたんだ・・嬉しいネ~・・」

日本に復帰した奥寺康彦と話したとき、感慨深く、そんなことを言っていたっけ。そして、つづけて、こんな根源的なテーマにも入っていった。

「そうなんだよ・・ケルン時代も、ベルリンでも、どうして仲間は、上手ければ上手いほど、ハードワークをサボろうとするんだろうかって、疑問をもっていたんだ・・」

■サッカー(プロ)監督という仕事・・

「サッカーってさ、本物のチームゲームじゃないか・・ミスは、誰にでもあるコトだから、それを互いにカバーし合わなきゃサッカーにならないよな・・」

その通り。

サッカーは、ある意味、ミスの積み重ねであり、だからこそ、互いに助け合わなければ、チームワークは成り立たない。でも・・

そう、才能に恵まれた選手にありがちなのだが、特に守備において、チームプレーのハードワークをサボる傾向が強いのだ。

自分がやりたいプレー「だけ」にしか興味がないような、甘やかされたスター選手たち。

だから、守備は「お座なり」だし、攻撃でも、パスを受けるためにスペースへ走ったりせず、「オレにボールをよこせっ!!」ってな感じで、止まって足許パスを要求する。

そしてボールを持ったら、自分が良いパスを出せるように、周りのチームメイト達が必死に動くことを強要する。

スターと呼ばれる選手には、そんな「楽して金儲けしようとする低次元マインド」の選手が少なくないのである。

だからこそ、世界中で、そんな「歪んだ」スター選手たちを「袋小路」から救い出すためにも、強烈な「ストロングハンド」が求められているのである。そう、優秀なプロ監督。

もちろん逆に、チームのために、「スター選手という病巣を取り除く」難しい作業に取り組まなければならないケースもある。どちらにしても、そこで強烈な「牽引パワー」が要求されることは言うまでもない。

「そうなんだよ・・オレがケルンに来たときにも、そんな選手がいた・・そう、ベテランのスーパースター・・そのプレー態度は、まさに傲慢そのものだったん だ・・ヘネス(ヴァイスヴァイラー)も、そのプレー態度を改めようとしたけれど、結局は諦めて、追い出すことにしたんだ・・」

奥寺康彦が、当時のことを思い出しながら語る。

「そしてヘネスは、そのスーパースターの代わりに、ハインツ・フローエとか、ヘルベルト・ノイマンといった才能ある若手を、中盤のコアに据えたっちゅうわけさ・・」

「もちろんヘネスは、そんな若手のテクニシャンたちに対して、守備や、ボールがないところでの汗かきプレーなど、ハードワークを厳しく要求しつづけたんだよ・・そしてその成果として、リーグ優勝に輝いたというわけさ(1978年)・・」

「そうだったよな・・当時、まだ若かったオレの脳裏にも、ヘネス(ヴァイスヴァイラー)が、チームプレーを活性化させるためにスーパースターを追い出したことが、鮮烈に記憶に刻まれたよ・・」

そんな私の言葉に、奥寺康彦も敏感に反応する。

「そうなんだよ・・オレも、そんなヘネスの、チームを新しく作り替えるプロセスを、とても心強く感じていたんだ・・何せ、それまで、誰も、何も言えなかったスーパースターに対して、敢然と立ち向かったんだからな・・」

「あっと・・当時は、ヘネスの方が大きく格上だったから、そのスーパースターの方がビビッていたはずだよ・・でもヤツは、自分の歪んだプライドを捨てることができなかった・・まあ、とにかく、その経緯は、いまでも鮮烈に記憶に残っているよ・・」

奥寺康彦のハナシはつづく。

「その頃からだったよな・・オマエ(筆者)から何度も聞かされていたけれど、攻守にわたるチームプレーは、自分から探し出すモノだって強く意識するようになったんだ・・」

「そして、そんな考える姿勢が、オレを、まったく新しいタイプの選手にしてくれたということなんだと思うよ・・」

「まあ、ヘダゴット(ヴァイスヴァイラーの後任)は、上手い選手を特別扱いするとか、スター選手たちに何も言えなかったけれど・・そんなふうに、ヘダゴッ トがヘネスの逆を行っちゃったことでチームがボロボロになってしまったよな(その後ヘダゴットはすぐに解任された)・・」

そして奥寺康彦は、シーズンの途中で、ベルリンという新天地へ向かうことになった。

■そして奥寺康彦の、ブンデスリーガでのキャリアが伝説の領域に入っていく・・

その奥寺康彦が、ヴェルダー・ブレーメンへ移籍した経緯は、前述した通りだ。

そう、オットー・レーハーゲルの「眼力」。

そして奥寺康彦の、「スーパー・オールラウンダー」としての伝説が、確固たるカタチをもちはじめるのである。

ブレーメンでは、63試合に連続出場するなど、帰国するまでの9年間に235試合に出場し、25ゴールを挙げた。

この日本人プロ戦としての記録になっていたゴール数は、つい最近、マインツの岡﨑慎司が塗り替えたけれど、まあ、奥寺康彦に対する評価のベースは、「そこ」とは別の次元にあるのだから・・。

聞くところによると、「どうして9年間もブンデスリーガで活躍できたのか?」という質問に対して、奥寺康彦が、こう答えていたということだ。曰く・・

・・自分はスーパーな選手じゃなかったけれど、長くプレーできたバックボーンを敢えて表現するならば・・1+1を、確実に「2」にできるという確実性をもっていたということかな・・

フムフム・・。

いま奥寺康彦とは、たまに「横浜FC」のゲームを観にいくときに挨拶する程度だけれど、まあ、互いに、いま自分たちが置かれている状況で、毎日を一生懸命に(そして楽しく前向きに!)生きているっちゅうことだろう。

また彼とは、機会を見つけて、互いの「新しい真実」を語り合うことにしよう。