My Biography(17)__サッカーをはじめた頃のエピソード(その5)
■決断・・
「そうか・・結局、そういう結論になったのか・・オマエは言い出したら聞かないからな・・まあ、アタマを冷やすという意味でも、一度クラブを離れるのも悪くはないかもしれないな・・」
チュンさんは、そう柔らかい口調で私を送り出してくれた。
彼には、分かっていたのだ。私が、サッカーから離れられないこと・・そしていつかは、クラブにもどってくることを・・
「そうそう・・何人かの3年生もまだ残っているし、チームはとてもうまく仕上がったから、多分、夏のインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の予選で は、いいところまでいくはずだ・・もしかしたら、相模工業大学附属高校を破って、神奈川県の代表になれるかもしれない・・そこまで勝ち進んだら、応援に来 いよ・・それだけは、約束してくれるな・・」
チュンさんの言葉や態度からは余裕まで感じられた。
ところで、相模工業大学附属高校。当時、神奈川県では並ぶ者のいないビッグワンだった。
その時のエースは、奥寺という、パワフルで、スピードのあるストライカー。そう、「あの」、日本最初の(欧米トップリーグでの初!?)プロサッカー選手、奥寺康彦である。
彼は、生まれた年は同じだったけれど、早生まれだったから、学年は私よりも一つ上だった。当時は面識はなかったけれど、彼が「1.FCケルン」というプロクラブに移籍してきてからは、チュンさんの依頼もあって、彼をサポートすることになった。
私がケルンへ留学してからちょうど1年後の、1977年のことだ。
あっと・・、それよりも、退部してからのハナシをつづけよう。
■そして、生活が空白になった・・
そのとき(高校二年の夏休み)のことは、実は、よく覚えていない。
ただ一つだけ。毎日が「空っぽ」になったこと。それは、まさに「悶々」とした日々だった。
何をやっても楽しくない。もちろん勉強に集中できるはずがない。そして、時間を見つけちゃ、母校の長後中学校に出向いてボールを蹴っていた。
要はサッカーが、私にとって、とても大切なモノだったことを再認識しはじめたということだ。でも、どうしようもない。
ヨーロッパならば、監督と考え方が違う場合、別のサッカークラブへ移籍するという手がある。でも、日本の学校体育じゃ、そんなこと出来るはずがないし、当時は、いまのような「町のクラブ」なんて皆無だった。
「よく覚えていない・・」と書いたのは、本当に、どのような経緯でサッカークラブに復帰したのか、そこまでのプロセスが、断片的にしかアタマに浮かんでこないのだ。
そう、結局私はサッカー部に復帰したのだけれど、それは夏休みも終わりに近づいた頃だったと覚えている。
退部届を出すために、職員室へチュンさんを尋ねたのが夏休みの直前だったから、私がサッカー部を離れていたのは、一ヶ月くらいだったということか。
■何よりも好きなモノがある・・ということ・・
クラブを辞めてからの(高校二年の)夏休みについては、本当に断片的にしか思い出せない。多分それは、具体的な目標を失ったことで、「刺激」まで失ってしまったからだと思う。
若者には、「夢」という「刺激」が必要なのだ。
もちろん、それを追い求めるプロセスでは、様々な苦しみや喜びを、繰り返し体感しつづけるだろう。でも、その「刺激」がいいんだよ。それこそが、血となり肉となって「その人のパーソナリティー」を育(はぐく)んでいくのだ。
でも、そのときの私は、サッカーという「刺激発生装置」を失っていた。フ~~ッ・・
もちろん当時の私が、サッカーが内包する(私にとっての!)とても大事な意味に思い当たるはずもなかった。
毎日、無為に(何も考えず・・何にもこだわらずに・・)過ごしていたと思う。いま考えれば、目標(夢)や刺激がないのだから、何も記憶されていないのも当たり前だと合点がいく。
ただ、一つだけ。
サッカーのことが片時もアタマから離れなかったという感覚は、アタマのなかに深く刻み込まれている。
気になって、気になって、仕方なかった。だから、時間があるかないかにかかわらず、湘南高校へサッカー部の練習を観にいったり、ゲームを観戦したりしていた。
自分が一度捨てたクラブの活動を遠巻きに観察する・・
いまから思えば、考えられない「卑屈」な態度ではないか。でも、当時の私にとっては、自分のプライドなんかより、サッカーの方が大事だった(そのことを再認識させられていた!)・・と思う。
変なプライドをうち捨てることも含め、すべてを犠牲にして打ち込める「好きなモノ」がある・・
それは、それで、とても重要な意味があったということだ。
■そして湘南高校は、本当に、県予選の決勝まで到達した・・
そうしているうちに、湘南高校が、インターハイの神奈川県予選決勝まで駒を進めてしまうのである。
奇妙なことに、私は、ワクワクして、そのゲームを観戦しにいった。
後から聞いたのだけれど、私が、練習やゲームを観にきていることは、チームメイトたちも知っていたし、意識していたということだった。
どのように「意識」していたのかは定かではないが、心境はとても複雑だったはずだ。
何せ、外見には、クラブを出ていかざるを得なくなった元チームメイトが、自分たちの練習やゲームを遠巻きに見つめているのだから。
いま、そのシーンを思い返したら、ちょっと身震いする。今だったら、決して、そんな行動は「とれない」だろうな・・
そう、とらない・・ではなく、とれない・・のだ。
人生のなかで、事あるごとに背負ってきた、様々な経験(Trauma!?)が、まさに本能的に、「それ以上キズ口を広げる」ような言動を抑制するかのように・・
結局、湘南高校は、その決勝で、前出の相模工業大学附属高校に敗れ、インターハイ出場はならなかった。
私は、落胆していた。そう、私は、彼らに全国大会まで行って欲しかったのだ。
その感情は、退部してから体感しつづけた、元チームメイトたちの「ひたむきさ」に対するシンパシーだったのかもしれない(その、ひたむきさが、私の感情を 凌駕した!?)。そして私は、自分自身の「自己実現」を、元チームメイトたちの「それ」と一体化し、彼らに託していた・・
本当のところは、分からない・・
とにかく、試合の後は、とても複雑な「思い」を胸に、誰にも挨拶せず、その場を離れたことを鮮明に思い出す。
ところで決勝。そこでゴールを決めたのは、奥寺康彦だった。
彼が「1FC.ケルン」に移籍してから(1977年以降)親交をもつようになったわけだけれど、彼は、そのときのゴールをまだ鮮明に覚えていたっけ。
それくらい、湘南高校が頑張ったということだ。
奥寺康彦にしても、戦前の予想に反して、自分たちのチームが追い込まれていると感じていた。だからこそ、ゴールを決めて勝ち切ったときの喜びもひとしおだったのだ。
観戦していた私も、湘南高校の「頑張り」に、深い感銘を受けていた。
戦前の予想では、「相模工業大学附属高校がゲームを圧倒的に支配して勝利を収めるに違いない・・」というのが大方の見方だった。でも・・
さすがの勝負師、鈴木中・・
個々のチカラでは、まったく相手にならないけれど、それを「一つのチーム」としてまとめ上げ、そのなかで、「個々の役割」とチーム戦術を徹底させる。
そして、ここが大事なポイントなのだけれど、その「コンセプト」にしたがって、一人の例外もなく120%以上のチカラを出し切らせたのだ。
「サッカーは本物の心理ゲーム・・」というメカニズムを深く理解しているからこその、効果的な采配。鈴木中先生は、素晴らしい仕事をした。脱帽だった。
そして、その決勝の数日後、再び、職員室にチュンさんを訪ねたというわけだ。
■サッカー部への復帰・・そしてゴールキーパーへの挑戦・・
「そうか・・やっと戻ってくる気になったか・・オレには分かっていたヨ・・」
「でも、一つ条件がある・・もう言う必要もないだろうけれど、ゴールキーパーへ転向して欲しいんだよ・・そして露木とポジションを競り合って欲しい・・いいな・・」
「はい・・」
私も、サッカー部へ復帰することが、ゴールキーパーへの転向を意味することは分かっていた。その覚悟があったからこそ、チュンさんを訪ねた。
そして、同じサッカーでも、まったく異質なポジションであるゴールキーパーへ挑戦していくことになった。何が異質かって!? そりゃ、11人のうち、彼だけが手を使ってプレーできることだよ。
でも、その挑戦は、簡単なものではなかった。
ただ、私には、バレーボールという経験値がある。
要は、ハイボールを、ジャンプして最も高い位置でキャッチしたりパンチしたり、また、打たれた相手シュートに、素早く反応して飛びつくといった「セービング」に対する感覚では、人に負けないという自信があったのだ。
露木は、一生懸命、私の上達を手助けしてくれた。
ボールのキャッチングの仕方から、ポジショニング、守備ラインの組織作りや彼らへの指示の仕方などなど。そして私も、徐々に、ゴールキーパーというポジションにも魅力を感じはじめていった。
もちろん、それだけじゃ面白くないから、練習が終わってから、ミニゲームで「普通のフィールドプレー」にも興じた。それは、それで、楽しく充実した日々だった。
それは、サッカー部を離れていた「空っぽの時期」と比べれば、まさに活き活きとした別世界だった。
■ゴールキーパーでもレギュラーを意識しはじめる・・
そうなんだよ・・
露木の指導が良かったこともあるけれど、ハイボールのキャッチングやパンチング、また、横っ飛びに相手シュートをキャッチしたりパンチする「セービング」のウデも、日進月歩ってな感じで上達していったんだ。
そしてそこには、徐々に露木のことを本当のライバルだと意識しはじめる自分がいた。でも・・
そう、ゴールキーパーの本領は、キャッチングやパンチングといった「派手な単発プレー」で発揮されるのではない。
優れたキーパーは、微妙で正確なポジショニングの調整、味方ディフェンスラインに対する的確な指示など、チームワークの「基点」でもなければならないのだ。
それが、「優れたキーパーは、セービングをする必要がない・・」と言われる所以なのである。
そんな「調整能力」では、何といっても経験に裏打ちされた「感覚」がモノを言う。
中学校時代から優秀なゴールキーパーとして鳴らした露木には、そのことが明確に分かっていたに違いない。だから彼は、私のことを、本物のライバルではなく、あくまでも、自分が怪我をしたときの「バックアップ要員」だと捉えていたのだ。
そんな心理ベースがあったから、私にゴールキーピングを教えるときも、何も隠さず、また「歪んだ感情」など微塵も感じさせずに、フェアに接してくれた。
ゴールキーパーにとって、「優れたプレーとは??」という命題を深く理解していたからこその「余裕」・・ということだったのかもしれない。
でもその時の私は、真剣に、露木のポジションを奪い取ろうとしていたんだ。
その背景には、私の、生まれつきの性質があったと思う。何らかの目標を立て、それを達成しようとする前向きな(攻撃的な!?)姿勢。それである。
今でも、そうだ。
私は、常に、自分自身で「目標を設定」し、その目標の内実に「納得」したら、全身全霊で、それを達成するためにチャレンジしていこうとする。
まあ・・「全身全霊で・・」というのは誇張しすぎかな。
とはいっても、少しでも目標に近づいていくために前向きに努力しようとする積極性(感情)が湧き出してくることだけは、胸を張って言える。私は、それを、セルフモティベーション能力と呼ぶ。
もちろん結果は、どうなるか分からない。
だから、これからも繰り返し、歓喜と落胆の間を行き来するに違いない。
それでも、そのプロセスは、とても価値があるし、魅力的だ。私は、そのことについて心から確信し、納得しているから、失敗しても、まったく懲りないという自信があるのだ。
あっと・・露木とのレギュラー争いだった・・
■もちろん、チュンさんにも「見えて」いた・・
そう、チュンさんは、前述した、ゴールキーパーとしての正しい資質を、しっかりと判断し、正しい決断を下していたのだ。
監督にとって、ゴールキーパーとしてのもっとも大事な適正は、何といっても、経験に裏打ちされた「安定力」なのである。
高校サッカーでは、全ての公式戦が、トーナメント形式だ。一度でも負ければ、それでアウト。
だからこそチュンさんは、ゴールキーパーには、派手なチャレンジではなく、あくまでも安定したプレーを求めたのである。
たしかに私は、ゴールキーパーへ転身してから、短い期間に、様々な視点で長足の進歩を遂げ、ハイボールの処理や、相手の強烈なシュートを止めることではは、露木と、少なくとも互角レベルまでは到達しているという自負もあった。
でも、チュンさんが求めていたのは、「それ」ではなかった。
■バックアップ要員として露木のサポートに徹するという貴重な体験・・
ゴールキーパーとしての安定力・・
その面では、たしかに露木に大きなアドバンテージがあった。そのことは、私にもよく理解できた。
そして、それこそが、チュンさんがゴールキーパーに望む、もっとも重要な「資質」であることも理解していた。それは、「露木とレギュラーを争うところまで行きたい・・」という私の希望が、まさに一人舞台だったことを意味した。
そんな厳しい現実を明確に認識したのは、高校三年になった頃だった。
でも、そのときは、退部するなどという発想は、まったくといっていいほど浮かんでこなかった。それよりも、露木を、控えゴールキーパーとして、どのようにバックアップすべきかということを真剣に考えるようになっていたのだ。
その感覚は、いまでも、はっきりと思い出せる。
クラブやチームメイトに対する責任感!? これから湘南高校が臨んでいく様々な大会に対する畏敬(いけい)の念!? それとも、自分自身のアイデンティティー(誇り)を守りたいがため!?
よく分からないけれど、とにかく、その時の私が、しっかりと露木をバックアップしたい(しなければならない!!)という信念をもっていたことだけは確かな事実だった。
自分は、黒子だ。チームが勝っても、裏方で終わるだろうし、クラブの歴史にも(目立つカタチでは!?)残らない。
でもそれは、大したことではなくなっていた。本当に・・
多分そのときは、自分の目標と一致する(!)大きなメカニズムのなかで、それを支える一つのパーツとして機能することに誇りまでも感じていたと思う。
いや、自分自身が、「それ」を感じられるまでに成長していたということなのかもしれない。
それも、「オレという一つのパーツが欠けたらチームは機能しなくなる・・」という自負をもって。
結局、我々の代でも、湘南高校が「全国大会」への神奈川県予選を突破することはなかった。
それでも、そこで体感し、アタマのなかの「イメージタンク」に、整理してしまい込んだ「何か」は、貴重な、本当に貴重な宝物になった。
(次回からは、ケルンでの留学生活のハナシに戻ります)