My Biography(57)_大ケガ(その7_エピソードの2)・・(2015年12月8日、火曜日)

■そのときも「ボキッ!」からはじまった・・

それは、またまた、体育大学構内の人工芝フィールドでの出来事だった。

もちろん学生たちが三々五々に集うミニサッカー。たしか「5対5」だったと思う。そしてコトは、そこでも、目の前の相手をドリブルで抜き去った直後に起きた。

相手が背後からブチかましてくるスライディングタックルを(軽やかに!?)飛び越し、そして(これまた華麗に!?)着地したと思ったときのことだ。

ボキッ!!

かなり大きな異音。周りのヤツらにも、聞こえたはずだ。

それは、プロコーチ養成コーチングスクールを終了し、ドイツの国家試験にも合格した直後のこと。そう、ドイツへの留学の最終的な目的を達成し、数日後に日本へ帰国しようとしていた矢先のことだった。

そこで負ってしまった大ケガは、右膝(ヒザ)の前十字じん帯の「部分断裂」だった。

また、前十字じん帯を損傷するようなアクシデントの場合、多くのケースで、膝の関節が「ズレる」ことで、半月板にも支障をきたす。

後から分かったことだけれど、私の場合も、例に漏れず、半月板も同時に損傷していた。

■読売サッカークラブの戦友(チームドクター)だった福林徹先生・・

先日(2015年11月)、読売サッカークラブ時代の「戦友」でもある、プロフェッサー福林徹先生と旧交を温めたのだが、そこでも、当時のコトで盛り上がったものだ。

ケガを負い、まともに歩けない状態で帰国した私だったけれど、ドイツではもちろん、日本でも医者に相談することなく、翌年の2月から、ある程度プレー出来るまでに回復したコンディションで、読売サッカークラブとコーチ契約を結ぶことになる。

最初に担当したのは、読売サッカークラブのユースチーム(高校生チーム)と、トップ二軍に当たる「ジュニア」だった。

そして、その一年半後には、読売サッカークラブのトップチームコーチに就任し、当時トップチームの専属ドクターとして契約していた、東大の福林徹先生と知り合ったというわけだ。

■最初に受けた手術が、その後の右膝トラブルの元凶だった・・

読売サッカークラブ当時のことについては、そのうちに詳述するけれど、ここでは、読売サッカークラブで契約コーチの仕事をはじめてから、それまで「だましだまし」プレーをつづけてきた膝(ひざ)が、悪化の一途をたどったハナシをしよう。

前述したように、そのときは(トップチームを担当していなかった最初の頃)、まだ福林徹先生と個人的に知り合う機会に恵まれていなかった。

そのこともあって、ヒザのトラブルについて、ある整形外科のドクターに相談することになってしまったんだ。

その方は、ある知人の紹介だったのだけれど、それが悪かった。

彼は、前十字じん帯の損傷については言及せず、単に半月板の手術を勧めたのだ。

当時は、まだまだナイーブだった私は、まともにサッカーがプレーできるようになるのだったら・・と、手術を受け容れた。

でも、その手術がヒドかったんだよ。そのドクターは、ヒザの両側に、長さ10センチにも及びそうなほど大胆に「メス」を入れたんだ。

当時はまだ、内視鏡による膝(半月板やじん帯損傷など)の手術が広く普及していたわけじゃなかった(・・と思う)。

それに、(本来の!?)原因が前十字じん帯の損傷だったし、そのトラブルに全く手をつけなかったわけだから、その後も、ヒザ関節が「ズレ」て半月板トラブルに見舞われる事態に陥ったことは言うまでない。

その後に、トップチームのコーチに就任したというわけだ。もちろん直ぐに、ヒザのトラブルについて福林徹先生に相談した。

福林徹先生は、その手術跡を見た瞬間、開口一番、「え~~っ!?・・なんで最初からボクのところに来なかったんだ・・」と、呆れかえっていた。

医学も含め、世の中の「多く」は、急速に変化し、進化しつづけているわけだけれど、そのときほど、その事実を身に染みて認識させられたコトはなかった。

だからこそ、サッカーに限らず、世界的な情報化の流れに、効果的に、そして効果的に「乗る」ことが大事だというわけだ。

もちろん、自分自身で、無限に出回っている「情報」をしっかりと「選別」できるだけのリテラシーとオペラシー(知恵)を進化させるという意味合いも含めて・・ネ。

それにしても、オレのヒザ。フ~~・・。

■福林徹先生が直々に執刀してくれることになった・・

「それじゃ、オレがなかを見てみるから、オフシーズンのスケジュールを調整しよう・・」

福林徹先生は、とても優れたパーソナリティーの持ち主だ。

要は、良いコーチに通じるエッセンス「も」備えているというわけだけど、どんどん「コト」をリードしていった。

福林徹先生は、「その道」のスターだったけれど、その優れたパーソナリティーも含めて、とても頼もしく感じていたコトは言うまでもない。

手術の当日には、福林先生に、ニュータイプの「内視鏡ユニット」を評価してもらうために集まったメーカーのエンジニアや営業担当だけじゃなく、病院や大学の関係者(ドクター連中)など、多くの方々が、手術室に詰めかけていた。

あっと・・、そのときの病院だけれど・・。

当時から、日本全国の病院からゲスト手術を依頼されていた福林徹先生だけれど、そのときも、東大の病院ではなく、知り合いのドクターが活躍している品川にある病院の施設を使わせてもらうことにしたようだ。

ということで、その手術室の雰囲気は、さながら「ショー手術」ってな感じだった。

こちらは目を白黒させていたわけだけれど、そんな雰囲気のなかで、福林徹先生が、私のことを、手術室のなかにいる全員に紹介してくれた。

その言葉に、背筋がピンッと伸びたけれど、そこでも、福林徹先生の前向きなパーソナリティ(心理マネージメント能力!?)を体感していた。

「ここに寝ている湯浅は、読売サッカークラブで、トップチームのコーチをやっている・・そのクラブについては、つい先日チャンピオンになったばかりだから皆さんもご存じのはずだ・・」

「監督は、ドイツ人のグーテンドルフというプロコーチなんだけれど、湯浅は、コーチとしてだけじゃなく、そのドイツ人のオッサンと、チームやメディア等を つなぐ架け橋としても、とても良い仕事をしている・・コイツのコミュニケーション能力は抜群だし、私も、いつも敬意を抱いている・・」

「まあ、いまの読売サッカークラブでは、とても重要な存在で、コイツがいなければ何もはじめられないというのは事実だからね・・」

手術室にいるギャラリーの方々が、一様に、「ヘ~~ッ!?」。でも、持ち上げられた本人は、まな板の鯉っちゅうわけだ。フ~~ッ・・。

そしてはじまった内視鏡手術。そこでも福林徹先生は、しゃべりつづける。

・・あららっ・・オマエの前十字じん帯だけれど、完全に断裂しちゃっているじゃネ~か・・もう跡形もなくヒザのなかに溶け込んじゃっているよ・・

・・最初のアクシデントのときは、たぶん部分断裂だったんだろうけれど、同時に半月板も損傷したことでヒザが不安定になったんだろうな・・その後で何度もズレて、結局は前十字じん帯が、完全に切れちゃったってわけだ・・

・・人工じん帯を入れようか?・・それとも、オマエの身体のなかの別なところからじん帯を引っ張ってこようか(エッ!?・・移植するっていうこと??)・・

・・とにかくヒザが安定しなきゃ、半月板にもよくないからな・・

福林徹先生は、こちらが答えようもないコトを聞く。そんなコトは、アンタが考えてくれよ!!

そのとき私は、こんなコトを考えていた。

・・でも、まあ、選手としてプレーするわけじゃないし、前十字じん帯の「再生」には、かなりの時間と労力を要するから、まずは半月板を整えよう・・そこからは、ヒザに注意してプレーすればいい・・

■そして福林徹先生のショーがはじまった・・

執刀だけれど、そのときは、ヒザ側面の左右に1センチ程度の「切れ込み」を入れた。

そこから(要は、ヒザの両サイドから)二本の内視鏡(関節鏡)を差し入れることで、様々なオペレーションをするというわけだ。

内視鏡をのぞき込む福林徹先生。そして、前述のような「最初の診断」が、次々と口をついたというわけだ。

「そうだな~・・まあ、溶けてしまった前十字じん帯を再生するかどうかについては、また機会を改めて相談することにしよう・・とにかく今は、半月板をしっかりと整えるよ・・」

そのときは局所麻酔だから、会話もできたし、モニターで、自分の関節のなかを見ることもできた。福林徹先生は、サッ、サッと、必要な処置をしているけれど、私には、何が、何だか、まったく分からなかった。

でも、周りで観察している専門家ギャラリーの方々からは、何度も、(控えめな!?)感嘆の声が上がったっけ。やっぱり福林徹先生は、優秀なドクターなんだ・・。

そのとき、看護師の方が、私に話し掛けてきた。

「ホラッ・・ホラッ・・見てくださいね・・いま、ヒザのなかから、切り取った半月板のカケラを取り除いていますよ・・」

たしかに、関節鏡の先端が、何かを「掴んで」いるように見えた。そして、それがヒザから引き抜かれ、掴んだ「半月板のカケラ」が、シャーレに落とされた。

それは、白みがかった軟骨らしきモノだった。そう、チキンの「あれ」である。

そんな、こんなで、福林徹先生の「ショー」は、一時間ほどで終了した。

先日お目にかかったとき(2015年11月)も、そのときのコトが話題になった。先生も覚えていたから、ハナシが盛り上がったっけ。

■爆弾を抱えたヒザとうまく「付き合って」いけるようになったれど・・

それからも、何度か、ヒザに「水」が溜まるようなトラブルに見舞われた。

キックした後などに右脚で着地したときに、前十字じん帯がないことで、ヒザが「ギクッ」とズレてしまうのだ。そして水が溜まる。

何度か、福林徹先生に、水を抜いてもらったのだが、それが、痛い。

太い注射針をヒザの側面から差し込むのだけれど、それがとても痛いのだ。

そして、そんな「痛い思い」を積み重ねているうちに、右ヒザに「過激なチカラ」がかからないようにプレーできるようになっていった。

要は、注意深くプレーするということなのだけれど、そのことで逆に、プレーイメージが大きく「制限」されてしまったことは言うまでもない。

それは、安全パスに「逃げ込んで」しまうような縮こまったプレーのコトだけれど、それじゃ面白くないし、とても辛い。でも仕方ない。

何せ、思い切ったプレーにチャレンジしようとした瞬間に、「ヒザに水が溜まる」という恐怖がアタマを占拠してしまうのだから。

もちろん、高校生やジュニアチームをコーチするときは、たまには一緒にプレーすることもあった。でも、「プレーイメージ制限」のために、心底プレーを楽しめたわけじゃなかった。

それは、読売サッカークラブ時代のハナシだから、私はまだ30代の半ば。

怖いから思い切りプレーできない・・という状況には若すぎるじゃないか。

そんなだから、自分では考えもしないミスが多かったのも道理だ。だから、フラストレーションも溜まる。それは、本当にとても辛い経験だった。

そして私は、コーチングという仕事(哲学アクティビティー!?)に対する意識と意志が、どんどん深まっていったと感じていた。