My Biography(45)_戦友、奥寺康彦(その3)
■名将、ヘネス・ヴァイスヴァイラー・・
「このところ、監督からサ、もっと自己主張しろって、しつこく言われているんだよ・・要は、もっと積極的に仕掛けていけっちゅうことなんだろうけれど・・」
奥寺康彦が、私が住んでいる、狭い、狭~いワンルームアパートを訪ね、そんなコトを言った。奥寺康彦にドイツ語の手ほどきをしていたときのことだ。
専属の通訳やドイツ語の教師はいるのだろうけれど、私とは、サッカーの話題で盛り上がれるから、語学も、より早く上達するに違いない。
日本人初のプロ選手である彼は、とても目立つ存在。だから、私のアパートへの入り方にも「工夫」が必要だった。でも結局は、色々な制約があることで、奥寺康彦の自宅へ語学トレーニングの場所を移すことになった。
あっと・・、奥寺康彦にハッパをかけた監督のハナシだった。
奥寺康彦がプロデビューを果たした1.FC Köln。当時の監督は、泣く子も黙るスーパープロコーチ、故ヘネス・ヴァイスヴァイラーだった。
彼は、当時のドイツ代表監督ヘルムート・シェーンでさえも頭が上がらない、ドイツサッカー界の重鎮中の重鎮。ドイツのサッカー史に残る、超、名将である。
私も、彼から、何度も教えを授かったものだ。
そういえば彼からは、日本サッカーも、多くを学んだっけ。
特に、三菱重工と日本代表の監督を務めた二宮寛氏と親交が深く、奥寺康彦に白羽の矢が立った経緯にも、そんな事情があった。
ヘネス・ヴァイスヴァイラーが亡くなったとき、世界的にも有名なケルンの大聖堂で、しめやかに葬儀がとり行われたのだが、驚いたことに、家族、知人友人、一般ファン、サッカー関係者やメディアだけではなく、政治や経済の名士も顔を揃えた。
それだけでも、ヘネス・ヴァイスヴァイラーが別格のプロサッカーコーチ(影響力のある社会的存在!?)だったことを再認識させられたものだった。
ブンデスリーガの雄、ボルシア・メンヘングラッドバッハの監督として大成功を収めていただけじゃなく、同時に私の母校である、ドイツ国立ケルン体育大学で、主任講師とプロサッカーコーチ養成コースの責任者を務めたこともあったヘネス・ヴァイスヴァイラー。
ただ結局は、プロチームとアカデミック活動の掛け持ちが難しくなったことで、ケルン体育大学からは離れざるを得なくなった。
とにかく、当時のヘネス・ヴァイスヴァイラーは、ドイツサッカー界において、別格のオーラを放つ存在だったのだ。
そのヘネス・ヴァイスヴァイラーが、奥寺康彦を見出し、自分のチームに引っ張った。そりゃ、指導にもリキが入るはずだ。
■奥寺康彦の「闘う意志」が、どんどん高揚していく・・
「サッカーって、不確実な要素が満載だろ・・言葉を換えれば、本物の心理ゲームだって言えるんだよ・・だからこそ、選手たちの意識と闘う意志を限界まで高揚させることこそが、オレ達プロコーチの、もっとも大事なタスクなんだ・・」
ヘネス・ヴァイスヴァイラーが、私の目を正面から見据えて、そう言ったことがあった。
プロコーチとしての、大迫力オーラをブチかましてくるヘネス。その、筆舌に尽くし難いレベルのエネルギーに、身体が硬直していくのが分かる。
そしてヘネスは、そんな私に、たたみ掛けてくるんだよ。
「オマエ・・ビビッているな・・プロコーチを目指しているんだろ・・それだったら、相手が誰であろうと、またどんな状況であっても、常に、自分自身で考え、勇気をもって自己主張できなきゃ満足な仕事なんてできないぞ・・」
彼からは、プロコーチとしての根底的な「姿勢」を学んだ。それだけじゃなく、ヘネスは、プロ選手との関係性について、こんなエッセンスも教えてくれたっけ。
「そうそう、選手からレスペクトされる監督っていうテーマだけれど、ヤツ等(プロ選手たち)は、監督としての肩書きに対して敬意を払うなんてことは、決して、ない・・」
「ヤツ等は、とにかく、監督の知識と知恵、そして最後は、人間性までも、しっかりと推し量っているんだよ・・そして、監督が、ヤツ等にとってポジティブな価値があると評価されてはじめて、選手と監督の、プロとしてのフェアな相互信頼関係が成り立つというわけだ・・」
あっと、またまた前段が長くなってしまった。
とにかく、そんなヘネス・ヴァイスヴァイラーが、奥寺康彦に対して、例のダミ声で、「もっと自己主張しろ・・!」と、ダイナミックなオーラをブチかましつづけたのである。
そう、迫力満点の、ヘネス・ヴァイスヴァイラー的な刺激!
もちろん、卓越した「心理マネージャー」でもあるヘネス・ヴァイスヴァイラーのことだから、そんな言動による刺激だけじゃなく、手練手管が満載の「物理的な方策」で、奥寺康彦を刺激しつづけたことは言うまでもない。
その一つが、ホルガー・ヴィルマーという若手のライバルをぶつけてきたことだ。
当時ヴィルマーは、奥寺康彦よりも4歳以上若かった。そりゃ、負けるわけにゃいかない。
1976年10月にケルンの一員となった奥寺康彦は、10月22日のMSVデュイスブルク戦でデビューを果たした。だが、そのプレーぶりは、まだまだ遠慮がちだった。
そんな奥寺康彦の「プレー姿勢」が、ヴァイスヴァイラーやヴィルマーという「刺激」によって、どんどんと活性化していったのである。
■自覚こそが・・
「結局、自分自身が闘うしかないんだよな・・」
ある日、トレーニング後に、例によって、クラブハウス二階のレストランでビールを傾けていたとき、彼が、しみじみと、そんな言い方をしたことがある。
私は、彼のトレーニングも定期的に観察していた。そしてタイミングが合えば、トレーニング後に、ビールを飲みながら、色々な話題で盛り上がったものだった。
「エッ・・!? それは、どういう意味だい?」
そんな私の質問に、奥寺康彦が、こんな言い方をした。
「プロだから、活躍してナンボだよな・・もちろんチームの仲間は、親切に助けてはくれるけれど、最後のところは、自分一人で打開していかなきゃいけない・・何といっても、30人近くいるメンバーで、ゲームに出られるのは11人しかいないわけだからサ・・」
「そんななかでサ・・このところ、プロの現実を、イヤというほど意識させれられるコトがつづいているんだよ・・」
奥寺康彦は、具体的にどんな経験をしたのかについて詳しく語ることはなかった。でも、激烈なプロの競争環境のことだ、日常的に「何か」が起きつづけていることは、「推して知るべし・・」なのである。
そのとき私は、奥寺康彦が口にした、「結局、最後のところでは自分一人で闘うしかない・・」という部分が、決定的に重要だと感じていた。
プロだから、アマチュアにありがちな「公平な分配」という発想が先行するケースなど考えられない。あるのは、激烈な競争を勝ち抜いた者だけが享受できる「独占」なのである。
だからこそプロチームの監督は、その競争が、できる限りフェアなものになるように制御しなければならないのである。
そして選手たちは、プロの競争メカニズムを明確に意識し、そこで生き残っていくための様々な活動(努力)を通して、意志を増幅させていくのである。
そこで培われた強烈な意志。
私は、セルフモティベーション能力と呼ぶ。まあ、自分自身で「やる気」を喚起する能力とでも定義しようか。奥寺康彦も、それを発展させることが、いかに重要だったかについて語っていた。
そして、彼には、強い「心の支え」もあった。最後まで闘い切れるかどうかを左右する心の拠り所。そう、幸せで安定した家族だ。
奥寺康彦は、もちろん家族もケルンに連れてきていた。その家族を守るという意識。それもまた、彼の意識と意志を高揚させる、とても強いバックボーンだったのだ。
私は、奥寺康彦と話すなかで、彼の「覚悟」を肌身に感じていた。自分自身との闘いとも言い換えられるライバルとの競争に勝たなければ、自分だけではなく、家族の明日もない。
そして奥寺康彦は、着実に、闘う意志のレベルをアップさせていった。
(つづく)
PS:つづきは、オーストラリアからですかネ・・