The Core Column(19)__自分勝手になりがちなアメリカのティーン女子たち・・サッカーが秘める社会教育的なチカラ

■アメリカ東海岸の「定説」・・

「知っているかい? 東海岸じゃ、サッカーが、ティーンの女の子たちの躾(しつけ)にとても良いってことが定説になっているんだぜ・・」

久しぶりに再会した、アメリカ東海岸(コネティカット州)に住む友人が、唐突に、そんな話題を切り出した。

えっ!? それって、どういうことなの?

女子のアメリカ代表が、2011年ドイツワールドカップ、2012年ロンドンオリンピックと、2年連続でつづいた世界大会のファイナルで、「なでしこ」と歴史に残る勝負を繰り広げたことは記憶に新しい。

女子ワールドカップがはじまったのは、1991年。またオリンピックで女子サッカーが正式に採用されたのも1996年のアトランタ大会から。

そんな、歴史の浅い女子サッカーで、これまでにアメリカ代表は、オリンピック、ワールドカップを合わせて6度も世界の頂点に立った。現在のFIFAランキングも含め、まさに、押しも押されもしない世界トップネーションなのだ。

何事にも世界一でなければ気が済まない(!?)アメリカのことだから、女子サッカーの人気が高みで安定するのも自然な成りゆきということか。

そういえばアメリカは、女子だけじゃなく、男子サッカーでもメキメキとチカラをつけている。「あの」アメリカ社会でも、サッカーというスポーツ自体が地歩を固めつつあるということなのだろう。

もちろん、そのもっとも重要なバックボーンが、イレギュラーするボールを足であつかうという不確実なサッカーでは、最後は自らの判断と決断で(!!)自由に、そして積極的にプレーしていかざるを得ないという根源的な「魅力」にあることは言うまでない。

■アメリカ女子代表とドイツサッカーも関係が深かった・・

あっと・・、アメリカの女子サッカー。

そういえば、私も、アメリカ女子代表チームとお近づきになったことがあったっけ。

アメリカで初めて女子ワールドカップが開催された1999年の前年、アメリカ女子代表がドイツで合宿を張った。

偶然ドイツを訪れていた私は、プロコーチ養成コースで一緒だった友人がコーディネーターを務めていたことで、トレーニングや親善試合だけではなく、ミーティングにもアテンドさせてもらったのだ。

そのとき、彼女たちの優れた身体能力や技術、戦術理解だけではなく、その意識と意志の高さに舌を巻いた。

そして彼女たちは、自国で開催されたワールドカップ決勝で、PK戦の末に中国を振りきって世界の頂点に上り詰めるのである。

ところでその決勝。

たまたま訪米していた私は、ダフ屋からチケットを手に入れ、エキサイティングな決勝マッチに舌鼓を打つことができた。

満員にふくれ上がったロサンゼルス郊外のローズボールスタジアム。

そこで味わった歓喜は、推して知るべしでしょ。何たって、ドイツで接点をもった彼女たちが、世界の頂点に立ったんだぜ。わたしの当事者マインドが最高潮に達するのも道理じゃありませんか。

そんな背景もあって、冒頭で紹介した、東海岸地方でのアメリカ女子サッカーの事情を語る友人の言葉に、殊のほか敏感に反応したというわけだ。

■サッカーが秘める(社会)教育的なチカラ・・

エッ!? サッカーが「しつけ」に効果があるって!?

「そうなんだよ。アメリカのティーンの女の子たちって、自分勝手になる傾向が強いだろ。そんな彼女たちの品行が良くなるとか、相手のことを思いやれるようになるとか、そんなポジティブな効果が注目されているんだよ・・」と、友人。

本当かい・・?

そのとき、なんか昔の「学園ものテレビドラマ」のようなハナシだな・・なんて思いながらも、私なりにそのバックボーンに思いをめぐらせていた。そして・・

フムフム・・、サッカーの根源的なメカニズムを考えれば、当然のハナシだよな!!

本物のチームスポーツであるサッカーじゃ、一人でも自分勝手なプレーをしたら、簡単にチームが崩壊しちゃう。だから、一人ひとりが、高い意識と意志をもって助け合わなきゃいけないんだ。

前述したように、サッカーでは、イレギュラーするボールを足で扱うという不確実な要素が満載。だから、次に何が起こるか分からない。

そんなサッカーだから、ミスは付きものだけれど(私は、サッカーはミスの積み重ね・・と表現することにしている!)、それが、あり得ないほど連続してしまうことだってある。

だからこそ、「味方のミスだってカバーしてやるゾッ!」ってな、自己犠牲もふくめた強いチームワークマインドを高めることが、決定的に重要になってくる。

たしかに、ドリブル勝負をブチかましていくのは楽しいし、状況に応じて、そんなリスクチャレンジも必要だ。でも、それ「だけ」ではサッカーは成り立たない。

サッカーは、いつも書いているとおり、攻守のハードワークに支えられた、組織的なパス(コンビネーション)ボールゲームなのだ。

だから、パスを受けるだけじゃなく、味方が使えるスペースを作り出すためにも、ボールがないところで、しっかりと走らなければならない。もちろん、ボールを失ったら、すぐにキツイ守備にも戻らなきゃいけない。

■ある女子高校生プレイヤーの述懐・・

「最初は、なんてサッカーは難しいんだって、イヤになりかけたのよ・・でもサ、ボールが止まるようになってからは、どんどん楽しくなった・・」

筆者の長女が、アメリカの大学に留学していることもあって、これまでに何度もアメリカ東海岸地方を訪れたことがある。

そこで、前述した東海岸の友人と親しいファミリーの女子高校生にハナシを聞くことができたんだ。彼女は、自分が通う高校の女子サッカーチームでキャプテンを務め、ゲームメイカーでもあるということだ。

「そう、ボールが止まるようになって、サッカーが楽しくはなってきたけれど、そこからが大変だったな~・・サッカーってさ、チームゲームじゃない・・だか ら、一人でも自分勝手なプレーをしたら、うまくいかなくなるのよ・・例えば、ドリブル勝負ばかりにうつつを抜かすとか、ボールを取られてもディフェンスし ないとかネ・・」

「最初のころは、そんなに自分勝手なプレーが多かったのかい?」と、筆者が聞く。

「そりゃ、そうよ・・もちろんコーチが色々と言ってくるから、その直後はチームプレーが活発にはなるけれど、でもすぐに・・そう、私も含めてネ・・自分がやりたいプレーにはしっちゃう・・でもサ・・」

その子のハナシによれば、みんな自分勝手にプレーするものだから、チームが負けつづけたのだそうだ。

それじゃ面白くない。また、コーチはコーチで、攻守のハードワーク(チームプレー)ばかりを要求する。そんな、こんなで、一度はチームが崩壊しかけたというのだ。

「何人かの子は、クラブを辞めちゃうし、勝てないものだから、自分勝手なプレーが、もっと横行しちゃうし・・まあ、その頃のチームは、完全に壊れていたね・・でも・・」

そう、そこから、彼女が中心になって、チーム内で何度も話し合ったというのだ。もちろんコーチも、短気な言動を慎むようになったし、彼女たちが受け容れられる優れたアドヴァイスも出してくれるようになった。

「コーチも、とても我慢強くなったのよ・・みんながサッカーを好きなことがよく分かったんだろうね、サッカーを楽しむために何が大事かってことを、分かりやすく説明してくれるようになったの・・」

「そこからは、徐々に、みんなの助け合う姿勢が向上していったし、いったんクラブを辞めた子たちも戻ってきた・・」

そして、全員が、本当の意味でサッカーを楽しめるようなったのだそうだ。

サッカーを、本当の意味で楽しめる・・

とても素敵な表現じゃないか。

そのコーチとも話したかったけれど、ちょうどその時は、サマーヴァケーションで会うことは叶わなかった。ちょっと残念だった。

■彼女の母親も、同じようなことを言ってたっけ・・

「ちょっとビックリしたわね・・あの自己主張のカタマリだったウチの子が、相手の気持ちを考えられるようになったんだから・・」

そのお母さんによれば、すべてが自分(やりたいコトが!)中心だった長女(その女子高校生)の態度が、サッカーをはじめてから大きく変わった(良くなった)というのだ。

「自分の思い通りにコトが運ばなくても、それを誰かのせいにするんじゃなく、もしかしたら自分も悪かったのかもしれない・・なんてことにまで考えが及ぶようになったんですよ・・」

そのとき私は、お母さんが使っていた、「・・まで考えが及ぶようになった・・」というのも、とても素敵な表現だと感じていた。

そう、サッカーは、若者の「創造力」だけじゃなく、周りの人々との関係性のなかで発揮されるべき「想像力」も養ってくれるんだよ。

何せサッカーじゃ、自分一人でコトを運べるわけじゃないからね。だから、常に、周りの仲間と、助け合わなければならないんだよ。

ちょっとハナシが逸れるけれど・・

まあ、助け合うとはいっても、ディエゴ・マラドーナのような「世紀の大天才」がいれば、ソイツに、とことん自分勝手にプレーさせて(!?)もいい場合があるよな。その方が、チームの目的を、より高い確率で達成できるわけだから・・。

もちろん、自分勝手にプレーさせていいかどうかは、その選手の「才能レベル」にもよる。

普通の天才だったら、(特に今のサッカーでは!!)攻守のハードワークにも精進させなければ、チームが崩壊しちゃうからね。

ホントに、そんな天才「的」なプレイヤーは(自分が大天才だと勘違いしている選手も!!)、チームにとっても、コーチにとっても、とても「難しい」存在なんだよ。

まあ、だからこそ、「天才」がチームに加入してくることは、コーチにとっての大いなる挑戦だ・・なんてことが言われたりするわけだ。

あっと・・、このテーマについては、また回を改めて・・。

■そして、サッカーという「社会的存在」の面目躍如・・

さて、結論めいた「締め」に入ることにしようか。

・・自己犠牲スピリットに「も」裏打ちされた「助け合いハードワーク」がなければ、サッカーは成り立たない・・また、チームの成長も望めない・・

それこそが、本物のチームゲームであるサッカーの(それを本当の意味で楽しめるようになるための!)、もっとも根源的なメカニズム・・ということが言いたかった。

楽しみを追求することにかけては誰にも負けないアメリカのティーン女子たち。

サッカーをとことん楽しむためにも、まず「give」することから始めるというポジティブな姿勢(pay forward !?)を学び、自分のモノにすることで、自然と、責任感や協調性(社会性)も磨かれていくということか。

そうそう、だからこそ私は、サッカーは(21世紀!?)社会のイメージリーダーにもなり得る存在だと主張しているんだっけ。

友人だけじゃなく、その知り合いの母親や女子高校生のハナシを聞きながら、サッカーが内包する「普遍的な社会的価値」にも思いを馳せ、ナルホド、ナルホドと頷(うなづ)くことしきりの筆者だったのであ~る。