My Biography(2)__ドイツ留学がモノにならなかったときのセーフティーネット!?・・運転手という職業からもらった安心感

カーラの助けもあって「ほとんど」完成させた入学願書は、早々に、ケルン総合大学へ送付した。1975年11月のことだ。

でも、この、「ほとんど記入したけれど・・」というコトが気になっていた。

そう、完全に、すべての項目に記入したわけじゃなかったんだ。

そりゃ、そうだ、「あの時点」で全てが決まっていたわけじゃないからね。

例えば、ドイツの住所とか、ドイツでの保証人とか(もちろん父親には、もしものときの経済的な保証人として、東京のドイツ大使館から証明書を発行してもらい、入学願書に添付してはいたけれど・・)、また、どの学部で、どんな学科を専攻したいのか・・などなど。

そんなこと、「あの時点」で決められるはずがない。だから空欄とか「未定」と記入した箇所も多かった。それが気にかかっていたのだ。

すべて記入しなければ受け付けてもらえないのかもしれない・・何でもいいから、とにかく記入しときゃ良かったんじゃないか・・なんてね。

普段だったら、そんな小さなことに「こだわったり」しないのだろうけれど、コトは外国への留学だから、事情の次元が違う。

そのとき私は、それまで歩んできた「日本社会の既定路線」から完全に外れることを強く意識せざるを得ない状況に立っていた。そう、これからは、日本社会のアウトサイダーとして生きていかなければならないことを強く意識しはじめていたのだ。

自分自身が選択した「そんな現実」については、おぼろげながら自覚はしていた。もう、普通のサラリーマンとしての人生は歩めないだろうな・・これからは、手に職をつけ、自分一人で生き抜かなければならない・・誰も助けてくれない・・

ただ、前回コラムでも書いたけれど、何となく、アウトサイダーとしても生きていけるような気はしていた。

そのバックボーンの一つが、大型自動車の運転手だった。

私は、大学1年のときから色々なアルバイトに励んでいた。そしてたどり着いたのが、トラック運転手。兄も同じアルバイトをしていたことで、私もスムーズにアルバイト運転手として「陸送の会社」に採用されることになったんだよ。

その会社は、自宅のあった神奈川県藤沢市の湘南台に本拠を置いていた。近くに自動車メーカー「ISUZU」の工場があることで、「そこ」に活動拠点を置いたということだね。そして、新車トラックを、日本全国のISUZUディーラーへ運ぶ。それを「陸送」という。

あっと・・運転免許・・

私は、18歳になったとき、直接、神奈川県の運転免許試験場(二俣川)で、「普通自動車」のドライバーズライセンスを取得した。もちろん何度かは、教習所へ行って個人練習は積んだけれど、16歳からオートバイに乗っていたことで、運転の「感覚」には自信があった。

自慢じゃないけれど(イエ・・自慢です・・スミマセン・・)、教習所ではなく、試験場へ直接出向き、2回目のトライで合格した人は、そんなに多くなかった・・ハズです・・アハハッ。

とはいっても、もちろん新米ドライバー。すぐに、陸送のプロドライバーとしてカネを稼げたわけじゃない。

たしかに、陸送の会社にアルバイト採用は決まってはいたけれど、一夏は、タダ働きに近い条件でトレーニングを積まなければならなかった。

要は、ISUZUの工場から、新車を陸送会社の駐車プールへ「卸して」くる作業だ。ISUZUの新車プールから会社までの間を、もう、何度も、何度も往復したっけ。

でもそれは、とても効果的なトレーニングになった。何せ、会社の駐車プールには、数センチ単位で新車を「詰め込ま」なければならないわけだから。そりゃ、運転技術だってアップするさ。

そうしているうちに、徐々に会社のマネージャーからも信頼されるようになり、一週間に何度かは、川崎にある新車の積み出し港までの陸送を依頼されるようになった。そして順調に、新車を地方ディーラーへ陸送をさせてもらえるまでに信頼を勝ち取っていったっちゅうわけです。

周りはプロのドライバーばかり。そこで、自分のウデを認めてもらい(認めさせ!?)、組織内のポジションを築いていく・・。それは、私にとって、本当に貴重な「社会経験」になったと思う。

何せ、それは、自分にとってはまったく初めての、とても微妙な、人間関係とチカラ関係の相克メカニズムの体感だったわけだから・・

あっ・・脱線・・

とにかく、運転には自信があった・・ということが言いたかった。どのように表現していいか分からないけれど、とにかく、自信があった。

でも、たしかに技術的には確かなモノがあったけれど、免許停止などで受ける(停止期間を短縮させるための!)講習会では、技術や知識はあるけれど、いささか攻撃的に過ぎる・・などとマイナス評価を受けることもあった。

まあ、そんな攻撃性の心理的バックボーンの一つにサッカーがあった・・っちゅうことなのかもね。あははっ・・

とにかく、クルマの操作はもちろんだけれど、オートバイで培われた、周りのクルマやオートバイとの確実でスムーズな「コミュニケーション能力」や予測(予知)能力という面でも、会社のプロドライバーの方々から信頼されるようになっていったのだ。

「オマエ・・こんな短期間で、よくそこまで上手くなったな・・そうか、オートバイか・・そうだな、オートバイの運転は、周りがよく見えてなければ、すぐに死ぬモノな~・・」

私が、 そんなプロセスを経て、 本格的に陸送でカネを稼げるようになったのは、大学二年になってからだった。

陸送アルバイトのエピソードについては、別の機会に詳述するけれど、とにかく、そのトラック運転手という職業が、(ドイツでモノにならなかったとき に!?)社会のアウトサイダーとしてサバイバルしていくための「手段の一つ」として、ある程度の支えになるという確信をもてたことが大きかったということ が言いたかった。

また、本格的に陸送アルバイトをはじめてからすぐに、「大型」の免許も取得した。当時は、普通免許で2年の経験がある20歳以上の人が、大型免許を取得できた。

またまた自慢話になるけれど(スミマセ~ン・・)、「二俣川」の運転免許試験場でトライした大型免許も、一発で合格した。

今度は、ホントに「一発」で合格したんだ。

試験官からは、「アンタ、今日は初受験だったんだね!?・・いままで、大型にトライしたことはあるの?・・えっ、ないの!?・・それにしちゃ、上手い ね・・あ~、そうだったのか・・陸送のアルバイトをしているんだ・・そうそう、あそこじゃ、工場の駐車プールで十分に練習できるからネ・・」、なんて、お 褒めの言葉を授かったっけ。

もちろん、大型免許によって、陸送の「単価」が、普通トラックよりも大幅にアップしたことは言うまでもない。その額を聞いたとき、うれしくて飛び上がったものだ。

そりゃ、そうだ。

大学の授業だけじゃなく、研究室での実験とレポート提出、はたまた神奈川県サッカー協会が主催するコーチングスクールにも参加していたから、限られた時間のなかでアルバイトに勤(いそ)しんでいたわけだから。

もちろん、可能なかぎり、自宅のベッドに入る時間を削った。

そして、新車を地方ディーラーへ陸送して納車し、そこから東京の大学へ「通う」電車のなかや、研究室での実験の合間をぬって爆睡するといった具合だった。

そんなだったから、時間の許すかぎり、いつでも、どこでも、そして「直ぐに」でも夢のなかへ入っていけるようになったことは言うまでもない。

いかに効率的に多くのカネを稼ぐか・・。当時は、そのテーマに没頭していたのだ。

大学を卒業するまでに貯金する目標額は、まあ200万円から300万円といったところだった。要は、ドイツへの『片道』の渡航費も含め、少なくとも3年間は、働かなくても生活できる額ということで設定した目標だった。

・・渡航費は、15万円くらい・・そして月々の生活費を、家賃や食費、交通費、その他の雑費もふくめて、何とか5万円前後に抑える・・ってな感じだ・・

当時のドイツの学生生活だからね、学生寮(うまくいけば1万円以下)や学生食堂(一食200円前後)はとても安いし、交通費や保険もビックリするほど低く抑えられている。ドイツ政府(ドイツの納税者の方々!)に感謝・・だったのです。

あっと・・ハナシは前後するけれど・・

もう一つ、ドイツでモノにならなかったときのセーフティーネットとして想定していたことがあったっけ。ドイツ語でカネが稼げるようになるかどうかは「タラレバ」だったけれど、当時は、ホントに真剣に、大型二種免許の取得も考えていたんだよ。

要は、バスの運転手。そりゃ、陸送よりも安定感があるよね。でも、免許の取得は、まあ、帰国してからでも遅くない・・ということにした。

とにかく、それくらい、運転手という職業には、安心感という意味で、大いにお世話になったものだった。

ということで、ケルン総合大学へ入学願書を送付してからは、大学の卒業、サッカー・リーダースクールの修了(当時は、日本サッカー協会から、サッカーリー ダーという資格が与えられた)、そして留学資金をできるだけ膨らませる・・という三つの目標は、順調に達成に近づいていた。

ただ一つだけ。

そう、ケルン総合大学からの入学許可証が届かないのだ。フ~~・・