The Core Column(30)_天才・・それは、コーチにとっての大いなる挑戦・・アルディージャの家長昭博も

■ドイツの友人が悩んでいた・・

「そうなんだよ。アイツのプレーを変えなくちゃ、チーム全体がボロボロになっちゃう・・」

以前、友人のドイツ人プロコーチが、そんな愚痴をこぼしたことがあった。

その頃の彼は、セミプロのドイツ3部リーグ(現在の、3.ブンデスリーガ!)のチームを率いていたのだが、成績が上がらず四苦八苦していた。

その原因は、はっきりしていた。ある天才的な1人の選手に、チームが依存しすぎていたのだ。

その選手の調子が良いときは、チーム全体のサッカー内容もアップする。

ただ逆に、彼の真骨頂である「勝負の個人プレー」が低迷したら、さあ大変。

攻守ハードワークに寄与しない彼の怠慢なプレーを、うまくカバーできなくなり、チーム全体のパフォーマンスが地に落ちてしまうのだ。

その背景には、チームメイトたちの、「なんだ・・オマエの才能プレーに期待して汗かきハードワークをつづけたのに・・」という、落胆と憤り「も」あったに違いない。

その天才プレイヤーがチカラを発揮し、チーム全体のパフォーマンスが高みで安定しているときには、チームメイトたちのハードワーク(モティベーション)もうまく回りつづける。でも「才能プレー内容」が減退したら、攻守にわたる「連動性」も減退してしまうというわけだ。

友人のプロコーチ(もちろん監督だよ!)は、そんな不安定な状況から、何とか抜け出そうともがいていた。

「とにかく、ヤツ(その天才)にも、攻守のハードワークをやらせなければならないんだ・・そのことが、チームを大きく進化させるし、結局は、ヤツのためにもなるってことを納得させなきゃいけないんだよ・・でもそれは、オマエも知っているとおり、簡単じゃない・・」

その友人は、クビを横に振りながら、そんな悩みを吐露(とろ)していたっけ。

■やっかいな「普通の天才」・・

どのチームにも、テクニックなどで傑出した天才的な選手がいるものだ。

でもそんな選手は、往々にして、攻守にわたるハードワーク(汗かきのチームプレー)をサボり、ドリブル勝負や、タメ(ボールキープ)&決定的スルーパスに代表される個人(勝負)プレーにウツツを抜かす。

たしかに、ツボにはまれば、誰にも真似できない結果を出すけれど、組織パス(コンビネーション)サッカーという視点では、その流れを停滞させることも多く、総体的にはマイナスになってしまうケースの方が多いのだ。

もちろんその選手が、世紀の大天才、ディエゴ・マラドーナくらいのレベルにあるならばハナシは別だ。

誰もが、より大きな成功を(より多くのカネを)手にできることを分かっているから、その天才のために汗かきハードワークを厭(いと)わないだろうし、その 選手の調子が悪くても、(パフォーマンスアップを期待して!?)汗かきハードワークの量と質が(極端に!?)ダウンすることもないはずだ。

でも、大多数の「普通の天才的プレイヤー」の場合、プレーの内実は、ディエゴ・マラドーナとは比べものにならないのである。

現代サッカー、特に世界トップクラスでは、素晴らしい才能を秘めた天才肌の選手もまた、攻守にわたるハードワークに「も」心血を注がなければ生き残れなくなっている。

だからコーチは、才能レベルが高ければ高いほど、組織ハードワークにも精進するように導いていかなければならないのだ。

また才能に恵まれた選手たちにしても、世界的な情報化の進展によって(!?)、「オレがハードワークをやったら、チームにとっての価値が倍増するはずだし、オレ自身のチャンスも格段に大きなモノになるはずだ・・」という正しい理解が浸透してきている。

そりゃ、天才が、ハードワークに「も」一生懸命に取り組むのだから、チーム全体の、攻守にわたる組織サッカーの「量と質」が格段にアップすること請け合いじゃないか。

もちろん、その天才プレイヤーにしても、よりフリーで(スペースを活用した有利なカタチで!)得意のドリブル突破や「タメ&勝負スルーパス」といった才能プレーをプチかませるのだから、充実感も天井知らずってなことになるはずだ。

ただ現実は、歴史をひも解くまでもなく、天才的なエゴイストの改心をあきらめる(≒その選手を使わない!)というケースは、枚挙にいとまがない。

「このテーマ」は、コーチにとっての永遠の課題なのである。

■ヴァイスヴァイラーのケース・・

そういえば・・。

「いいか・・天才的なプレイヤーがいるということは、コーチにとって、大いなる挑戦だと考えるべきなんだぞ・・」

ドイツの伝説的プロコーチ、故ヘネス・ヴァイスヴァイラーから、そんなニュアンスの金言を投げかけられたことがあったっけ。

当時ヴァイスヴァイラーは、西ドイツの名門、1.FCケルンを率いていた。

ときのスーパースターは、西ドイツ代表でも中心の一人だった、ヴォルフガング・オベラート。まさに、天才レフティーである。

ただし、(少し年がいっていた!?)彼の、ハードワークを嫌う怠慢なプレー姿勢が、チームの全体パフォーマンスにネガティブな影を落としていたことも確かな事実だった。

もちろんヴァイスヴァイラーが、オベラートの「再生」に着手したことは言うまでもない。

何度もオベラート自身と話し合ったり、グラウンド上でもアメとムチを駆使して改心させようとしたのだ。でも結局は、その努力が実をむすぶことなく終わってしまうのである。

ヴァイスヴァイラーは、プロコーチとして、もっとも難しく、そして魅力的な挑戦に失敗したことを、とても悔やんでいたっけ。

彼にとって、ヴォルフガング・オベラートという天才を再生できなかったことは、深いトラウマとなって心に残ったのである。

そのことが、彼の「金言」のバックボーンにあった。

そしてヴァイスヴァイラーは、オベラートを「切る」という決断を下した。

もちろん、その背景に、その決断をカバーする「次の一手」があったことは言うまでもない。

それは、オベラートがハバを利かせていたことで伸び悩んでいた若手ゲームメイカー、ハインツ・フローエをチームの中心に据えるというプランだ。

それだけではなく、若手のヘルベルト・ノイマンも伸びていたし、日本初のプロサッカー選手、チームプレーにも長けた奥寺康彦も獲得した。

また、エースストライカーのディーター・ミュラーも大きく発展していた(ヴァイスヴァイラーとディーターのエピソードについては「このコラム」も参照アレ)。

そして、1.FCケルンは、よみがえる。

組織サッカーのクオリティーが大幅にアップしたことで大躍進を遂げ、ブンデスリーガを制しただけではなく(二度目のリーグ優勝!)、ドイツカップ(日本の天皇杯!)を連覇するという快挙を成し遂げたのである。

それはもう、かれこれ35年ほど前のハナシだけれど、そんな、組織プレー(攻守のチームワーク)をハイレベルに機能させる「メカニズム」は、今日のサッカーでもまったく変わっていない。

そして、そのメカニズムを自在に操れるプロコーチのみが歴史に名を刻むのだ。

ヘネス・ヴァイスヴァイラーしかり、リヌス・ミケルスしかり、サー・アレックス・ファーガソンしかり、 ジョゼ・モウリーニョしかり、ジョゼップ・グアルディオラしかり、我らがイビツァ・オシムしかり・・。

■名将たちの大いなる挑戦・・

彼ら「ストロング・ハンド」は、才能あふれる選手たちが、攻守にわたる「汗かきハードワーク」にも取り組むことで、コレクティブ(組織)サッカーの機能性がアップするように、心理面もふくめて、しっかりとマネージする。

もちろん、クリスティアーノ・ロナウドやリオネル・メッシ(いまではネイマールも!?)は、チト例外・・だけどね。

そのプロセスでは、互いの強烈なパーソナリティーがぶつかり合うことだってあるだろう。でも優れたプロコーチは、一見ネガティブにみえる対峙をも、心理マネージメントの「ポジティブ刺激」として逆利用してしまうのだ。

様々なタイプの説得、グラウンド上での強烈なアメとムチ、新しいライバルの獲得といったマネージメント手法を駆使するだけではなく、家族や友人、恋人など、日常生活で様々に作用する人間関係をも、効果的な「影響ツール」として活用してしまうのである。

とにかく、天才連中を汗かきハードワークにも精進させる(心理)マネージメントにこそ、プロコーチの「ウデ」の本質が隠されているというコトが言いたかった。

そう、ヴァイスヴァイラーが言っていた、大いなる挑戦。

それを乗りこえた者だけが素晴らしいチームを創造できるし、特別な存在として欧州トップのサッカーシーンで光り輝きつづけられるのである。

■あっ、そうそう・・大宮アルディージャの家長昭博・・

急にドメスティックな話題へ飛んでしまって申し訳ないけれど・・

大宮アルディージャへ移籍した「天才」、家長昭博というテーマも興味深い。

そのアルディージャを率いる「ストロング・ハンド」、大熊清監督に、Jの第3節フロンターレ戦(アウェーマッチ)の記者会見で、こんな質問をぶつけてみた。

「家長昭博ですが・・あんなレベルの天才は、本当に希有な存在だと思う・・ただ、彼のプレーを観ていると、ロジックも意志も欠けていると言わざるを得ない・・私は、大熊さんならば、家長昭博を本物のブレイクスルーへ導いてくれると思っているのだが・・」

それに対して大熊清監督は、例によって真摯に、こんなニュアンスの内容をコメントしてくれた。曰く・・

・・彼は、まだまだだと思います・・ボールがないところの動きの量と質や、後半の運動量とか、課題は山積みです・・でも、まあ、球際のプレーについては、昔よりはイケてるところはあると思っているんですよ・・

・・彼の、チームに対する影響力は小さくないですからね・・あれだけの人材だからこそ、攻守にわたって、もっともっと仕事を探しつづけなければなりません・・

・・今はまだ、自分のコトで手一杯だし、チームへの貢献度も限られていますよね・・でも、その才能レベルを考えたら、彼には、(中村) 憲剛のように、攻守にわたって、チームを引っ張っていけるだけの存在になってもらわなければいけません・・

そして私は、すかさず・・

「大熊さんは、家長昭博が、そんな選手になれると思っているんですよね?・・(≒チームリーダーと呼ばれる存在にまで成長させられる自信があるんですよね?)」

・・そのことは信じてますし、鍛えなければならないと思っています・・彼の課題は、とにかく意識と意志をアップさせ、高みで安定させることなんですよ・・

そう、天才がチームに加入してきたら、ヴァイスヴァイラーが言ったように、監督・コーチにとっての「大いなる挑戦」がはじまることを意味するのだ。

監督の本質的な仕事は、人間の弱さとの闘いであり、時には、瞬間的に憎まれたり恨まれたりすることに耐えなければならないケースもあるだろう。

そんな状況で発揮される「忍耐力」の絶対的なバックボーンこそが、自分の正しさに対する自信であり、その「ネガティブ感情」が一時的なモノにしか過ぎないということに対する(時間が解決するという!)確信なのである。

優れたプロコーチである大熊清は、そんな「心理メカニズム」をしっかりと理解しているし、「刺激を与えるときの優れた指先のフィーリング」も持ちあわせている。

とにかく、これからも、大宮アルディージャの「天才」に注目していこう。

■ところで、冒頭の、ドイツ3部リーグでのハナシだが・・

結局、友人のプロコーチは、例の「天才」を改心させることに成功した。

キッカケは、その選手に子供が生まれたことだったらしい。サッカーに生活をかけようと、より上のプロリーグを目指すことに本気で取り組むようになった!?

ということは、その天才的プレイヤーが、攻守にわたる汗かきハードワークに本腰を入れなかったのは、「不作為の作為」だったということなのか!?

フ~~ッ!

本当に、天賦の才に恵まれたエゴイスト連中にハードワークをやらせるのは簡単な仕事じゃないんですよ。