My Biography(21)_ケルンNo.1プロクラブ(1.FC.Köln=FCケルン)アマチュアチームへのチャレンジ(その1)

■でもまず、私が入居した個人アパートについての補足・・

ケルンに到着して3日目にアパートが決まり、ドイツ語コースがはじまってからは、すぐにサッカー活動も開始した。

あっと・・そのハナシに入る前に・・

アパート(フランク通り11番)の屋根裏部屋では、学生寮とは違い、日常生活を、まったく一人で作りあげなければならなかったというテーマもあったっけ。

それは、初めての経験であり、とても重要なことだった。

その経験があったからこそ、今でも、「様々なコト」から自分を解放し(型にはまらずに!)、本当の意味で自立した生活を謳歌できているのかもしれない・・と思うのだ。

もちろん私にも家族がいる。

それでも、互いの「感性」を尊重し合いながら、ファミリーメンバーそれぞれが、独立した個人生活と協同ファミリーライフを、うまくバランスさせ、コーディネイトできていると思うのである。

まあ、その話題については、後々・・

そんなアパートでの自立生活だけれど、学生寮に入っていたら、楽である半面、まったくゼロから何か(意義ある日常!?)を作りあげるという、自信ベースの自立心(ドイツという異文化圏での自我の形成!?)が、うまく展開していかなかったかもしれない。

まあ、それでも私には、サッカーという「創造的な機会」はあったわけだけれど・・。

とにかく、そんな「自立トレーニングの場」という意味でも、前回コラムで書いたように、聖園(みその)のデレチアさん、そして湯浅フジローさんには心から感謝しているのだ。

ところで、そのアパートの屋根裏フロア。

そこには、数人のドイツ人学生(高校生もいたっけ!?)、ドイツの銀行で実習しているフランス人の女性やデパートに勤めるユーゴスラビア人の女性、そして、パティシエ(菓子職人)のマイスターを目指す日本人女性など、種々雑多な人たちが生活していた。

そんな彼らとのストーリーについても、別の機会に触れることにしよう。

とにかく、まずサッカーだ。

■ファン・バルコムと相川亮一さん・・

そして住むところを決めた私は、まず、その二年前にドイツを訪れたときにもお世話になった、ミッテルライン州サッカー協会事務局長、ベッカーさんに電話を入れることにした。ケルンに到着してから五日後のことだ。

直接サッカー協会のオフィスへ出向けばよかったのだろうけれど、まず、先方の都合を聞いてから訪問するのが礼儀だろうと、電話を入れることにしたのだ。まだドイツ語が不自由であったにもかかわらず・・である。

皆さんもご存じのように、外国語で電話を掛けることほど難しいことはないのだ。

あっと・・、ベッカーさん。

彼は、当時、読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ)で監督を務めていたオランダ人プロコーチ、ファン・バルコムから紹介された。

そして、そのファン・バルコムを紹介してくれたのが、当時読売サッカークラブ(トップチーム)のコーチをつとめていた相川亮一さん(故人)だった。

彼は、後に読売サッカークラブ(トッププロチーム)の監督に抜てきされ、チームを二部リーグから一部リーグへ昇格させるだけではなく、その日本リーグ(一部)でも成功に導いた。

今でも高く評価し、敬愛して止まなかったプロコーチ相川亮一さんだけれど、彼は、私が大学二年のときに、湘南高校の恩師、鈴木中先生から紹介された。

その相川亮一さんは、早稲田大学の政経学部を卒業するとき、「オレはサッカーのプロコーチになる・・」などと、当時としては「ワケの分からないこと」を いって就職せず、横浜にあった小さなスポーツ店でアルバイトをしながら、中学校やインターナショナルスクールのコーチをしていた。

そんな相川亮一さんだったけれど、あるとき、「当方、FIFAのコーチングスクールを卒業したプロコーチです・・コーチとして仕事ができる職場を求む・・」、という求職広告を、サッカーマガジンに自前で掲載した。

当時としては画期的、というか、ブッ飛んだ行動ではあった。

それは、相川亮一さんの優れたパーソナリティーを物語るエピソードの一つだけれど、その広告の甲斐あって、晴れて読売サッカークラブと専属コーチ契約を結ぶことができたというわけだ。

そしてすぐに頭角をあらわし、当時では珍しかった外国人プロコーチ、ファン・バルコムのコーチに抜擢されるのである。

ときを同じくして、神奈川県サッカー協会が主催する「サッカーリーダースクール」も、相川亮一さんが中心になってはじめられた。

まだ相川亮一さんが学生の頃から、彼のことを高く評価していた鈴木中先生は、当時から、神奈川県の国体高校選抜チームを任せたり、彼を中心にコーチ養成プログラムをスタートさせたりしていたのだ。

私も、ドイツへサッカー留学する前に、そのリーダースクールを修了したのだが、相川亮一さんは、ことほど左様に、バイタリティーあふれる人物だった。

ちなみに、リーダースクールの修了試験を担当してくれたのは、古河電工や名古屋グランパスエイトで監督を務められ、日本サッカー協会の重鎮でもあった、故、平木隆三さんだった。それ以降、ドイツ留学中も、彼には色々とお世話になったっけ。

ところで、相川亮一さんがはじめた神奈川県サッカー協会サッカーリーダースクールだけれど、それは、彼が(デッドマール・クラーマーのもとで!)修了した、FIFA主催のコーチングスクール(1973年、至テヘラン)をモデルにしていた。

そのこともあって、とにかく受講期間が長いだけではなく、内容も当時の日本では画期的なものだったことを、今でも鮮明に思い出す。

6歳年上で、優れたパーソナリティーを秘めた相川亮一さんは、私が、もっとも強く影響を受けたプロコーチの一人だった。

あっと・・、ベッカーさんへの電話連絡だった。

■冷や汗ものだった電話コミュニケーション・・

・・ペラペラペラ・・

ミッテルライン州サッカー協会に電話を入れたときのことだ。

受話器を取った女性スタッフの方の言葉が、まったく理解できない。

やはり、電話でのコミュニケーションは、難しい。

最後は、なんとか英語でコミュニケーションを取ることができたけれど、相手も、そんなに英語が上手いわけじゃないから、ちょっと苦労した。

「ベッカーさんは、午後はオフィスにいますよ・・貴方が、午後2時に来ると伝言しておきます・・」

そこまで意思を疎通できたのは、奇跡に近かった。何せ、当時の公衆電話から、コインを追加しながら掛けた電話だったのだから。

公衆電話の内部から伝わってくる、「コチンッ! コチンッ!」というコインの落ちる音が、私を焦りまくらせたのだ。もちろん、それに追い打ちをかけるような、女性スタッフの分かりにくい発音の英語もあった。

汗だくになった。

でも最後は、しっかりと復唱することで、その日の午後2時に、ミッテルライン州サッカー協会のオフィスを訪れるという合意を取り付けられたっけ。

フ~~ッ・・

■ミッテルライン州サッカー協会のベッカーさん・・

「久しぶりですね・・貴方がまたドイツへ来ると確信していましたよ・・」

ベッカーさんが、柔らかい笑顔を投げかけくれる。こちらの気持ちを落ち着かせてくれるスマイル。笑顔は、スムーズなコミュニケーションの基本なのだ。

「ご無沙汰してしまいました・・また、お礼のレターを出しただけで、その後は音信が途絶えてしまって恐縮してます・・」と、私。

「いや、そんなことは気にしなくてもいいですよ・・私も、クリスマスカードだって出さなかったんだからね・・そうですか、ケルンの総合大学で勉強するんですか・・」

「はい・・でもそれは最初の段階で、近いうちにケルン体育大学でも学生登録できればと思っています・・何せ、ドイツサッカーのアカデミックな中心は、あそこですからね・・とにかく今は、ドイツ語をマスターするために必死で頑張っています・・」

会話は、もちろん英語。ベッカーさんは、英語がとても堪能だ。そして会話するなかで、具体的な用件について聞いてきた。

「たぶん貴方が私を訪ねてきたのには、理由があるんでしょ・・挨拶だけじゃないと思うけれど・・」

ちょっと逡巡したけれど、意を決して切り出した。

「そうなんです・・いまはドイツ語を必死に勉強していますが、それと並行してサッカーも、どこかでプレーできればと思っているんですよ・・それも、出来る 限り高いレベルのチームで・・高望みかもしれませんが、もしベッカーさんが、1.FC.Kölnのアマチュアチームを紹介していただけたら、とても嬉し いのですが・・」

そこまで言って、ちょっと赤面した。

何せ、1.FC.Kölnのアマチュアチームと言えば、プロ契約がかなわなかった成人の猛者がプレーしているのだから。

そのアマチュアチームについては、前回のドイツ旅行で調べ上げていた。そのこともあって、ケルンへサッカー留学するときには、まず「そこ」で武者修行するつもりだったんだ。

■いざ、チャレンジ・・

もちろん高望みであることは重々承知していたけれど、ドイツ留学という人生の一大チャレンジをスタートさせていたわけだから、逡巡することは全くなかった。

英語で言うならば、「why not...!?」っちゅう心境だったのだ。

「そうですか・・もちろん、紹介しますよ・・そのチームの監督さんとは懇意ですからね・・」

そう言うと、ベッカーさんは、すぐに電話を手に取った。

ドイツ語だから、何を言っているのか分からない。でも、雰囲気は、とてもいい。そして・・

「それでは、今日のトレーニングから参加してください・・大丈夫ですよね・・もちろん、参加とはいっても、まず貴方の実力を確かめるためのトライアルではありますが・・もし、そのチームのレベルが高すぎたら、その監督さんが、別のチームを紹介してくれるはずです・・」

そのハナシを聞いて、急にビビッたことを思い出す。

「エッ!! 今日からですか!?」

それでも、すぐに思い直した。

・・もう、ここまできたら、やるしかないじゃないか・・心の準備なんて、くそ食らえだ・・当たって砕けてやる・・

「分かりました・・本当に、心から感謝します・・結果については、またお伺いして報告させていただきます・・」

姿勢を正し、そんな決意を(スピリチュアルエネルギー)をベッカーさんへ投げたっけ。

ベッカーさんも、そのエネルギーを感じたに違いない。満面に笑みを浮かべ、「とにかく・・頑張ってください・・応援していますよ・・」と、励ましてくれた。

■そして、1.FC.Köln(FCケルン)・・

ベッカーさんのオフィスを後にした私は、まずアパートへ戻り、「気」を入れ直しながら、シューズやウェアをバッグに詰め込んだ。

このプロセスが、とても大事なのだ。

そこで、これから起きることをイメージしながら、気合いを入れ直すのである。いや、変なネガティブなイメージをフッ切る・・と言った方が正確かもしれない。

そして気合いの入った私は、シュトラッセンバーン(路面電車)を乗り継ぎ、1.FC.Kölnのクラブハウスへ向かった。

そのクラブハウスは、ケルン市を取り囲む「市の森」のなかにある。

シュトラッセンバーンの終点からは、歩いて15分くらい。徐々に市の森が迫ってくる。そして私は、クルマが往来する大通りから、クラブへ向かう(森の中へ分け入っていくような!?)一本の小径へ入っていった。

小鳥のさえずりが聞こえるような、静かで落ち着いた森の中。

希望と不安、そして緊張から、胸が高鳴っている。

その小径は、高い木々におおわれて薄暗いけれど(まさにヘンゼルとグレーテルの世界!?)、それでも100メートルも歩いたら、右手に最初のグラウンド施設が見えてきた。チト、ホッとした。

その施設は、クレーの(土の)グラウンドが二面と、立派な芝のグラウンドが二面。もちろんサッカー専用だし、照明施設もある。

そんな充実した施設は、読売サッカークラブでもお目に掛からなかった。そんなサッカーグラウンドを目の当たりに、期待の半面、不安や緊張感も高まっていったモノだ。

・・こんな立派な施設でサッカーをやったことなんてない・・オレは、ここでサッカーをするのに十分なチカラはあるんだろうか?・・

そして、そんなグラウンド施設を過ぎたとき、急に森が開け、1.FC.Kölnのメイン施設が、目に飛び込んできたんだよ。

大きな駐車場を「前庭」に、地下もいれると3階建てになる立派なクラブハウス。2階部分には、ベランダやレストランが併設されている。

そのクラブハウスの正面に、プロが使用するメインのトレーニンググラウンドがあり(もちろん芝のグラウンド!)、クラブハウスの裏手には、2000人ほどの観客を収容できる小規模なスタジアムもある。

・・なんて立派なサッカークラブなんだろう・・前回のドイツ旅行では、ここまでは足が伸びなかったけれど、見学しておけばよかった・・

ちょっと圧倒され、そんな後悔の念が頭をよぎったものだ。

そして、ちょっと緊張した心理状態で、メインのトレーニンググラウンドを取り囲むように設置されている(見学の人たちが腰を掛けられるような)鉄パイプ製の「仕切り囲い」に腰を掛けていた。

そのとき・・

■憧れのスターが・・

そう、私の目の前を、当時の1.FC.Kölnと西ドイツ代表チームのビッグスター、ヴォルフガング・オベラートが通り過ぎたんだよ。

それも、私の顔を確認してから、「グーテンターク(今日は!)」なんて声を掛けてくれる。

そのときは、フリーズし、声も出なかった。

・・オイオイ・・今のは、オベラートだろ・・信じられない・・

そんな感じ。フ~~ッ!!

まあ、だらしないことこの上なかったのだけれど、そのときは完全に余裕を失っていた。

それだけじゃなく、その後も、ケルンのスター選手たちが、私の前を通って、続々とクラブハウスに入っていったんだ。

それも、多くの選手が、(当時は珍しかった!?)東洋人の私へ、値踏みするような視線を投げたり、声を掛けたりしながら通り過ぎていったんだよ。

フリーズしながらも(声などまったく出せなかったけれど・・)、徐々に、アタマを下げながら、目で挨拶することくらいは出来るようになったっけ。

そして徐々に、気持ちが、現実へと引き戻されていった。

そのとき私は、アマチュアチームの監督さんを尋ねていかなければいけなかったのだ。

そのためには、誰かに、その方の居所を聞かなければならない。フ~~ッ・・

(つづく)