My Biography(12)__ケルンの初日・・そして湯浅さんのこと(その2)

 


■さて、アパート探し・・

「さて・・それじゃ、キミのアパートを探しに行こうか・・」

「えっ・・今からですか?」

「そうだよ・・早いほうがいいし、こちらにも当てがあってね・・もうハナシはしてあるんだ・・」

ひとしきり、互いのことを話し合った後で、湯浅さんが、唐突に、具体的な行動を提案してきた。

だらしないけれど、私は、久しぶりの「日本的な雰囲気」に、とても落ち着いた(甘えた!?)気持ちになっていた。だから、その言葉で現実に引き戻され、溜息とともに(!?)急に緊張感が高まったことを覚えている。

もう少し、この、日本的な気持ちよい雰囲気を味わっていたかったのに・・

でも、そんな甘えが許されるはずがない。

「はい・・分かりました・・それでは、すぐに用意します・・」

用意といったって、別に特別なモノなど必要ないだろう。でも、心のモードを、行動ベクトルへ振っていく必要があったんだよ。

でもサ、そんな緊張感とは別に、一時でも落ち着いた気持ちになれたことには、ものすごく大きな価値があったと感じていた。それも、これも、湯浅さんファミリーという「環境」のお陰だった。

何せ、羽田を発ってからというもの、モスクワでの一件や、フランクフルトからケルンへの移動(もちろん、ウシは一時の清涼剤だったけれど・・)、そして暗 がりでのホテル探し(もちろん、暗がりって、雰囲気のことだよ・・)等など、とても緊張した時間を過ごしていたわけだから・・ね。

だから、湯浅さんファミリーの温かい雰囲気に、ものすごく入り込んでしまい、湯浅さんから「行動開始の号令」を掛けられたとき、自分に対して、「よし・・行くぞ!」って宣言することが必要だったのかもしれない。

「実はね・・キリスト教系の学生寮だけじゃなく、個人のアパート関係でも、強いコネをもっている日本の修道院があるんだよ・・そこのシスターに、キミのことを話しておいたんだ・・そしたら、快く、助けてくれることになったんだよ・・」

えっ・・日本の修道院!?・・そんなモノがあるのか・・ここはドイツのケルンだぜ・・

ちょっと驚いた。でも、そこで詳しいことなど聞く必要もないだろうから、すぐに、「ハイッ・・よろしくお願いします・・」という素直な一言が口をついていたっけ。

荷物はそのまま湯浅さんのところに置かせてもらうことになった。そして彼と連れ立って、日本修道院のケルン支部への挨拶に向かった。

■湯浅さんについて・・

ところで、湯浅さん。

本当に親身になって助けてくれた。それは体感レベルのハナシだから間違いない。彼は、優しい人なのだ(ここでは、その優しさの内実について定義するなどいうヤボはしないけれど・・)。

後で聞いたハナシなのだが、彼のところへは、私のように頼ってくる留学生もちょくちょくいたということだった。だから、「助け船」のノウハウも熟知している。

頼らせ「過ぎず」、そして、肝心なところでは、しっかりと救いの手をさしのべる。ただ、「そこ」までは、とにかく自分自身が主体になって切り拓いていかなければならない。

湯浅さんは、切り拓いていく・・という主体的な生活態度がいかに重要かを知っていた。

独立独歩の湯浅さんは、留学生活を充実させるために、何がもっとも大事なファクターになるのかを、とても深く理解していたんだ。

だからこそ、彼を頼ってく留学生たちを甘えさせず、自分で考え、決断することも含めて、主体的に「進んでいく」ように仕向けていたのである。

湯浅さんには、そんな、求められる「生活姿勢」を自分自身で(主体的に)切り拓き、体感していくというプロセスでも、本当にお世話になった。

その湯浅さんだけれど、関西の音楽大学で教鞭をとっていた・・というところまでは知っていたが、その後は、まったくの音信不通になってしまった。

音信不通になってしまったことについては、本当に申し訳ないと思っているし、言い訳もできない。

もちろんサッカーと生活に没頭していたわけだけれど、この歳になったら、そのようなコトも、まったく言い訳として通用しないことも理解できるようになったんだ。だから・・

でも、実は、この連載コラムを読んだある方が、調べてくれたんだよ。そして私に連絡をくれた。

「そう・・たしかに、湯浅さんのことを、フジロウさんと呼んでいた記憶があります・・そうか~・・やっぱりフジロウさんは、声楽だけじゃなく、尺八でも大成したのか~・・」

その方は、「湯浅 尺八 ドイツ」という三つのキーワードで検索をかけてくれたということだった。そして、その結果が、ビックリするくらい、私の「湯浅さん」にフィットしたモノだった。

もちろん、その「検索結果の湯浅さん」が、「あの」湯浅さんかどうかは、実際に会ってみなければ分からないけれど・・

その検索をかけてくれた方には、感謝しきり。それにしても、私がケルンでお会いしたときには、既に、尺八で著名な音楽家だったということか・・私が知らなかっただけで・・フ~~・・

よし、帰国したら「湯浅さん」に連絡してみよう・・

■聖園という修道院・・そしてデレチアさん・・

さて、ハナシを、「当時」に戻さなければ・・

スミマセンね、ハナシが、何十年もの時間を飛び越えて「前後」しちゃって・・あははっ・・

ということで、湯浅さんに紹介された、聖園(=みその)という日本の修道院(そのドイツ、ケルン支部!?)。

そこは日本人留学生にとってまさに聖園(楽園)だった。そこで生活するシスターたちも、本当に親身になって助けてくれる。

なかでも、私がもっともお世話になった方が、シスター・デレチアだった。彼女は純粋な日本人だけれど、皆から、そのシスターネームで呼ばれ、慕われていた。

「そうですか、サッカーの勉強のために留学するんですね。それでは、とにかく、まず住むところを決めなければいけませんよね」

話し方は、あくまでも穏やか。でも、その雰囲気のなかに、「信仰」という強烈なバックボーンが通貫していると感じる。

いや・・、それは、カソリックのルーツである(!?)ヨーロッパ(ドイツ)へ「回帰!?」してきた日本の修道院・・という(私にとっては考えられない!?)イメージがあったからこその感覚だったのかもしれないけれど・・

「私の知り合いに、アパートの管理人をしているドイツ人女性がいますから、ご紹介さしあげます。もちろん布団なども必要でしょうから、人が使ったものでよかったらお貸ししますよ」

デレチアさんは、非常にていねいだけれど、「強い心理バックボーン」に根ざす(!?)確信的なエネルギーを放散するんだよ。そんな声と雰囲気(オーラ!?)で、私への協力を申し出てくれたのだから、心強いことこの上なかった。

そのときのことを今でも鮮明に思い出すけれど、本当に、信仰には、ものすごいエネルギーが内包されていることを体感させられたモノだ。

何かしら、深く、信じられるモノがある人は、強い・・

私に、本当に何かしら心から信じられるモノがあった(いま持っている!?)のかどうか・・、とても疑問に思う。

だからこそ、強い信仰とともに生活している人の「深み」に圧倒されていたのかもしれない。

もちろん今は、これまでの人生やサッカー哲学といった「自分自身に対する信仰!?」とまでいえそうな「何かしらのモノ」を持っているつもりだ。だからこそ、どんな状況でも、考え、行動することに、確信をもって取り組める。

それは、本当に大事なことだ・・と思う。

デレチアさんのことを思い出しながら、そんな「哲学」にも思いを馳せていたっけ。

あっと・・ということで、デレチアさんとの会話・・

■自分に素直になることの難しさと大事さ・・

布団などの必需品は買わなければならないと思っていたから、「本当にいいんですか!?」と、飛び上がらんほどに嬉しかった。そう、願ったりかなったりだったんだ。でも・・

「あっ・・それでも・・私は、アパートを紹介していただくだけで大感謝なのに、布団まで面倒を見ていただくのは気が引けますから、それは何とか自分で・・」

そんなふうに、「一応」は辞退してみた。でも、この「一応」がいけなかった。

自分に正直ではないし、何といっても、デレチアさんと湯浅さんには、私の「本心」がミエミエだったはずだから・・。そう、格好つけた「一応」の辞退。

もちろん日本の一般生活では、そんな、本心とはちょっと違う「遠慮」の意思表示は、「儀式的」なニュアンスで必要な場合もあるだろうけれど、その時は、ドイツでの留学生活をスタートしようとしている矢先の貧乏学生という状況だったのだから・・

そう、出費を抑えられるのは、願ってもないことだったことだったんだよ。にもかかわらず・・

とにかく、「本当ですか、助かります。ありがたくご厚意を受けさせていただきます・・」と、(何かを超越して!!)素直な態度になればよかったんだ。

「ドイツ人が使っていた寝具ですから、おイヤだったら正直におっしゃって下さい。私たちは、困っている方々を助けて差し上げるのが使命ですから、なにも気をつかうことはないのですよ」

「逆に、正直におっしゃってくださった方が嬉しいのです。もちろん他に、ご辞退される理由がおありなら別ですけれど・・」

シスター・デレチアの言葉のバックには、カッチリとした信念があった。その言葉に込められた「何かしらのエネルギー」に触発され、自分自身が恥ずかしく思えてきたものだ。

「スミマセン、変な(格好をつけた)言い回しになってしまって・・ご厚意を、ありがたくお受けいたします」

それが、そのときの自分の感覚を素直に表現した言葉だった。だから、はじめから、素直に、そう反応すればよかったんだ。

「そうそう・・こんな言い方は失礼かもしれませんが、いまのような、素直に気持ちを表現されることを忘れなければ、ドイツでの留学生活は大丈夫ですよ・・人の好意を素直に受け入れることができるのは、心に余裕があることの証しなのですからね・・」

そんなデレチアさんの言葉が身に染みた。

■またまた、湯浅さんのこと・・

大学時代の同期生だった望月から紹介された同姓の湯浅さん。

彼の家庭は、とても素敵だった。

私は、湯浅さんだけではなく、奥さんとお子さんも含めた、全体的なファミリーの雰囲気が好きで、その後も、彼らの家庭を何度も訪れた・・というか、「入り浸る」なんていう状況だったのかもしれない。

もちろんその背景には、ドイツでの「日常生活」がまだ安定していなかったこともあった。

大学の事務局で学生証を作成してもらい、それに基づいて滞在許可(学生ビザ)を取得するとか、学生生活をはじめるために、外国人は、ドイツ語の試験に合格しなければならないとか。

また、どこかのクラブに登録して、サッカーに没頭できる環境を創りあげ、安定させるとか、そのような「日常」は、まだまだ、まったく先が見えていない時期だった。

だから、湯浅さんファミリーの温かい雰囲気に、とても助けられた。

とはいっても、留学生活のリズムが確立してからも、湯浅さんファミリーの雰囲気が好きで、訪問する回数が減ることはなかったっけ。

私は、湯浅さんが、他の日本人と、「つかず離れず」いった、とても良い距離感を保っていることも気に入っていたし、その生活の姿勢に興味をもった時期もあったんだ。

ちょっと不遜な表現かもしれないけれど、そんな湯浅さんの「独立独歩」な生活の態度が好きだったんだろうと思う。

だから、迷惑を承知で、湯浅さんのウチに入り浸ってしまった時期もあったんだよ。湯浅さんも、他の日本人とは違い、私のことだけは特別に扱ってくれていた・・と思う。

湯浅さんからも、「キミの生活の姿勢は、とてもいいね・・様々な意味でとても独立していると思うよ・・ドイツ語の試験にしたって、大学を移る件にしても、 またサッカークラブの件にしても・・まあ、キミだったら、いつもウェルカムだよ・・」などと、誉められたこともあったっけ。

ドイツ語の試験、大学やサッカークラブを移った件など、これからも連載のなかで語っていきますので・・

ということで、私にとって、とても大事な存在だった湯浅ファミリーだったけれど・・

そう、湯浅さん一家が、はじめて会ってから一年ほどして帰国してしまったのだ。

そして音信不通に・・

さて、そこでだ・・前述したように、ある方が調べてくれた、「私の湯浅さん」。

とにかくできればもう一度お会いして、当時のことを心から感謝したい・・

よし・・、帰国してから、何とか湯浅さんにコンタクトを取ろう・・

■自分自身のなかに潜む、さまざまな「矛盾」・・

ところで、様々な方々に助けられたこと・・

たしかに、その時の私は、本当の意味で「ヘルプレス」だったし、誰かの助けなしには、時間的にも経済的にも、大変なエネルギーを消耗したに違いない。でも・・

そう、それでもなお(日本での経験がなく、そのことについて十分に意識できていなかったから!?)、間違ったプライドに邪魔され、見栄を張ったり、変な遠慮をしてしまった。

そんな自分の(矛盾する!?)内面を、強く意識することもあったんだよ。そして自分自身を問い詰めるんだ。

・・そんなに見栄を張りたい(間違ったプライドに左右される)んだったら、聖園を紹介してくれただけじゃなく、その後もいろいろと面倒を見てくれた湯浅さんにだってコンタクトを取らず、すべて自分でやるべきだったろ~・・

そして、ネガティブなイメージに落ち込んでしまうんだ。それは・・

・・私を助けるかどうかは彼らの判断だよな・・幸運にも、親身になって助けてもらったけれど、でも、もし私からのお願いを、彼らが拒否したらどうだったろう・・たぶん私は、心の底では、彼らを恨むことになっていたかもしれない・・

・・人間なんて本当に勝手だからな~・・いや、「周り」が見えていないということなんだけれど・・

でもサ、困っている人がいても、その人のことを思って(!)、意図的に「助けない」というオプションだってあることも事実なんだよね。

まあ、そのことについては、この歳になってようやく、実感できているわけだけれど・・

もちろん「それ」は、その人の能力や経済力なども含めた基本的な状況にも拠るんだろうけれど、今では、「助けない」ことで、逆に、その人の可能性が大きく「広がった」という例も、多く知っているんだよ。

こんなコトがあった・・

友人のドイツ人の息子だけれど、アメリカの私立大学に留学していた。でも、その友人のビジネスが破綻したことで、息子への経済的な支援をストップせざるを得なくなってしまったんだ。

私は、その子が、ギブアップして帰国するに違いないと思っていた。でも数年後に、こんな顛末を聞いたんだ。

その子が、地力で、アメリカのスカラシップ(奨学金)を獲得し、無事に大学を卒業した・・というんだよ。そして今では、(周りに高く評価され、レスペクトされる!)とても優秀な国際ビジネスマンとして活躍している。

そのハナシを聞いて、とても爽やかな気持ちになった。

もちろん、生活文化によって培われた、欧米の人たちの内面を支える強烈な個人主義のポジティブな側面として「も」・・ネ。

あっと・・またまた、脱線してしまった。

・・とにかく、ドイツに渡ってからは、毎日、そんな「自分の内面との対峙」という貴重な学習機会を体感しつづけた・・そして、自分自身に対して素直になることの大事さを学んだ・・

そのことが言いたかった。

■ということで、アパート探しの話しに戻るけれど・・

デレチアさんに連れられて訪れたアパート管理人のおばさん。

花柄のエプロンをしている。60歳は超えているようだ。でっぷりと太っているから、歩きかたも不安定。歩くたびに身体が左右にゆれる。もしかすると体重がありすぎるから、歩くたびにヒザなどが痛むのかもしれない。

その管理人のおばさん、シスター・デレチアと話しながら、チラチラとわたしを観察している。

私は、できる限りの笑顔を作っていたけれど、心のなかはドキドキものだった。

でも結局、すぐに入居オーケーということになったんだよ。

そんな素早いネゴシエーションにも、ちょっとビックリさせられた。デレチアさんという人間が、とても信頼されていると感じたっけ。それもまた強い信仰の為せるワザなんだろう。

ところでドイツの賃貸アパート。

そこでは、「カウチオン」と呼ばれる補償金を預ける制度はあるけれど、日本でいう「礼金」などといった、ワケの分からないカネを支払う必要はない。

月の部屋代は300マルク。当時のレートで、約40,000円といったところだ。事前に調べておいた部屋代の相場からすれば、まあまあといったところ。それには、電気代、暖房費、共同シャワーなどの費用も含まれている。

私にとっては支払えるギリギリの線だ。シスター・デレチアには、今度は「素直に」、私が払える限度額をつたえることができた。

廊下や階段は、入居者が交代で掃除しなければならないということだが、まったく問題ない。とにかくその時は、衣食住という生活の基盤が、ある程度ととのったことで、「バンザイ」と叫びたい心境だった。

■フランク通りの、ハウスナンバー「11番」・・

そのアパートの住所は、フランク通り、11番だった。

私の誕生日は11日、そしてサッカーもイレブン。私にふさわしい数字だ。

まあ、書くまでもないだろうけれど、ドイツなど欧米では、すべての通りに名称が付けられ、それぞれの建物に番号がつけられている。

だから、住所さえわかれば、地図でさがすのは簡単だし、今では、カーナビを使えば、まさに玄関先まで正確に到着できる。

またそれぞれの建物につけられている番号も、通りの一方が偶数、他方が奇数という基本ルールがあるから、クルマで探すのも容易だ。

日本の、場合によっては無秩序とまで言えそうな住所システムとはまったく違う。

ところで、私のアパートがある「フランク通り」。

そこは、それからの3年間、私の活動ベースになったのだが、そこは、東京でいえば「明治通り」にあたる、ケルン中心部を取り囲む環状ストリートのすぐ裏手にある。

最初から、ケルンの中心街に住めることになったのだ。

最初は、ケルン郊外で安アパートを探すしかないかなと思っていたから本当にラッキー。ここからだったら、ケルン総合大学までだって歩いて十分ほどだし、飲み屋にだってこと欠かない。

自然と、ドイツでの留学生活に対する期待がたかまっていくのも道理だった。

■次からの数回は、エピソードとして、私がサッカーを始めた経緯、サッカーにのめり込んでいったプロセス、またカレンダーエイジと、バイオロジカルエイジ の「ミスマッチ」によって、特にフィジカル的な面(持久力)で大きなマイナスのあった私が、サッカー選手として辛い経験をせざるを得なかったことなど、書 くことにしますよ。もちろん、ドイツでのサッカー活動については、順を追うけれど、まず日本でのサッカー活動について御紹介できればと思います。で は~~・・