My Biography(31)_日常生活(その1)・・(2014年4月2日、水曜日)

■一期一会ではあったけれど・・

前回のクナイペでのハナシは、チト、尻切れトンボになったかもしれない。

でも、まあ、クナイペのエピソードについては事欠かないから、これから何度も出てくるでしょ。ということで今回は、わたしの日常生活を中心にハナシを進めようと思う。

あっと・・。前回のコラムで登場した(クナイペで出会った!)美人秘書だけれど、その後にウリと「何か」がはじまったというハナシはなかったね。

また私も、その美人秘書の(サッカーにまったく興味がない!)女友達とも、結局は「一期一会」ということになった。

とはいっても、その女友達は、固定観念から解放してくれた(ドイツでもサッカーに興味のない人々が多いという事実を体感させてくれた!)という意味で、とても大事な学習機会になってくれた。

世の中の様々な事象を、固定観念(偏見など!?)から解放された状態で、俯瞰(ふかん)できることは、自分を深め、「知恵」を鍛えるという意味でも大事なコトだから。

■シュタム・クナイペ・・

でもさ、そんなエピソードがあったことで(!?)、その時から、ウリとは、ヒマさえあれば、近くのクナイペでビールグラスを傾ける間柄になっていったんだよ。

もちろん最初のころは、「混んでる情報」にもとづいてクナイペを選んでいた。

ウリにしても、私のアパート近くに(アメリカ旅行から帰国して!)引っ越してきてから日が浅かったこともあって、自分の日常生活テリトリーを整えていかなければならない時期だったというわけだ。

でも時間が経つにつれて、「混んでる情報」に基づくのではなく、オーナーや常連客を知っていることの方を優先してクナイペを選ぶようになっていった。

そんな行きつけのビール飲み屋は、「シュタム・クナイペ」って呼ばれる。

「シュタム・クナイペ」は、とにかく落ち着けるし、客にしても、徐々に顔見知りになっていくから、その人たちやオーナーを介して、どんどんと知り合いの輪も広がっていくというわけだ。

とにかく、クナイペが、自分の気持ちの持ち方(!?)によっては、本物の(実のある)コミュニケーションとめぐり逢うための「良い機会」になるということが言いたかった。

それは、ドイツ語のレベルアップだけじゃなく、共通の話題を(主体的に!)見つけ出すというコミュニケーションのスキルアップにとっても、これ以上ないほどの効果的トレーニングでもあった。

そう、そんなプロセスを通して、人と知り合おうとする(それを人間的な触れ合いにまで深めようとする!?)積極的な姿勢こそが大事だということを、体感できるようになっていったんだ。

ありゃ・・!?

そうか、今回は、アパートの隣人たちとの日常の触れ合いについて書こうとしたんだっけ。

■アパートの隣人たち・・

ということで、私のアパートの隣人たち。

前にも簡単に書いたと思うけれど、屋根裏フロアの隣人たちは、全員が女性だった。それも、ほとんどが外国人。

何故そうなったのかは、よく分からない。とにかく私以外は、全員女性だったんだ。そのなかに、親しくなった、三人の個性あふれる魅力的な女性たちがいた。

一人は、出稼ぎでドイツに来ていた(旧)ユーゴスラビア人。ブランカといった。彼女が、どんな仕事に就いていたのかは覚えていない。

それでも、彼女が、とても大柄な美女だったことは(その顔つきまで!)いまでも鮮明に思い出せる。体つきだけじゃなく、その性格も、明るく、とても「大柄」だった。とにかく、いつもニコニコと笑顔で接してくれる、素晴らしい社交性だったっけ。

二人目が、ドイツの銀行でインターンシップ(職業実習)をやっているフランス人。

彼女は、アリス・マリー・クロチルドといった。

えっ!? どうして彼女はフルネームなのかって?? まあ、そのことについては、おいおい語っていきますよ。

彼女もまた、ちょっと太めではあったけれど、まさにフランス人形のような美形だった。もちろん彼女の顔立ちも、鮮明に覚えているよ。

まだハイティーンのアリスは、半年後にはインターンシップを終えて、家族が住むパリへ戻る予定だった。

そして最後の一人が、ドイツで、パン職人とパティシエの「マイスター称号」を獲得するという目標を掲げていた、日本人の「ヨーコさん」。

ブランカ同様、ヨーコさんの名字も覚えていない。そのとき彼女は、私よりも2つか3つ年上だったはずだ。

「私は、日本にいたときからドイツのマイスターに憧れていたんです・・パンやケーキの職人にも国家資格を与えてくれるんですからね・・だから、パンとケー キの修行は、もうドイツしかないと決めていたんですよ・・ユアサさんも、サッカーコーチの勉強じゃ、ドイツに留学するしかないって決めていたんで しょ・・」

そう語るヨーコさんだけれど、まさに、日本的な「しとやかさ」がにじみ出てくるような美しいパーソナリティーだった。

私は、彼女を敬愛していたんだ。

意志の強さ、優しさや思いやりの深さ、謙虚な態度、どれを取っても、まさに日本淑女そのものといった雰囲気だったんだよ。

だから、彼女の顔立ちを形容することを良しとしない感覚があるんだ。

もちろん日本的な美人だったよ。でも、それ以上の形容は、彼女の素晴らしいパーソナリティーに対してフェアじゃないと感じるんだ。要は、それほど私は、彼女を尊敬していたということなんだろうな。

でも、ヨーコさんとは、ひと月に何度か食事を共にすること以外(その多くで、彼女が料理してくれたっけ・・)、一緒の時間を過ごす機会はなかった。

何せ彼女は、パン屋とお菓子屋が一緒になった店で修行するという忙しい生活をおくっていたからね。朝は4時起きで、週末の休みもあまり取れない。

まあ、週末は、私もサッカーの試合があったしね。

いま考えても、ヨーコさんと、もっとお近づきになっておけばよかったという悔いが残っているんだよ。

ちなみに彼女は、無事にパン職人とパティシエの「マイスター国家試験」に合格し、その後、日本でお店を構えたというウワサを聞いたことがある。

誰を介してのウワサだったかは定かじゃないけれど、そこから情報がプツンと切れてしまって今に至っているという体たらくなんだ。

私が、6年をかけて、プロサッカーコーチのドイツ国家試験に合格したのと、彼女が、パンとお菓子のマイスター国家試験に合格したのが同じ時期だったから、そのときは、互いに、盛大なお祝いのパーティーを催したっけ。

でも、どちらが先に国家試験に合格したのかは、覚えていない。

あ~あ・・、そのこともメモしておけばよかった・・。

■午前中はドイツ語コース・・

当時の私は、ドイツ語コースとサッカークラブでの活動に全精力を注いでいた(1.FC.Kölnアマチュアチームでのチャレンジが始まる頃のことだね)。

それは、とても規則正しい生活だった。

朝は、6時には起床し、シャワーを浴びてから、(メンザと呼ばれる)学生食堂へ行って、朝食のパンとコーヒーに舌鼓を打つ。

もちろん、ハムやソーセージ、チーズや卵といった、パンにはさむ付け合わせは高くつくから、典型的なドイツの小型パンの「ブロッチェン」に、バターとジャムを塗ってほおばる程度だけれど、それでも毎朝、とても幸せな気分になれた。

ドイツの夏の早朝だから、とにかく気候がいい。気温も湿度もちょうどいいんだよ。そして総合大学の美しいキャンパス内にある学生食堂で、シンプルなドイツの朝食に舌鼓を打つ。そんな全てが、とても清々しいハーモニーを奏でているんだ。

それに、学食(メンザ)だから、安いこと、安いこと。そのことも、「ハーモニー」を盛り上げてくれたっけ。

もちろん、ドイツ語コースの仲間と顔を合わせたら、日常生活のハナシに花を咲かせながら、8時からはじまるドイツ語コースに備えるんだ。

「昨日・・何かやった?・・ちょっとビールを飲みにいった・・」

たわいのない簡単な会話だけれど、気持ちが通じ合えば、とても気分がよくなる。

そして、厳しいベーレント先生の授業が始まるっちゅうわけだ。

「グーテン・モルゲン・・ヴィー・ゲート・エス・イーネン・・(おはようございます・・ご機嫌いかが?)」

ベーレント先生のアクティブな挨拶だ。

「アッ・・アッ・・ゼア・グート・・ウント・イーネン?(とても良いです・・先生は?)」

ちょっと、ドキマギしながら返事をするけれど、ドイツ語コースがはじまってから、まだ間もない時期だからね、そんなにスラスラと言葉が出てくるはずがない。

ところで、ベーレント先生。

前にも書いたけれど、彼のパーソナリティーには、敬意を表するしかなかった。

彼は、生徒たちが積極的に授業に「参加」していくことを、「刺激」とともにモティベートする。

もちろんなかには、その「刺激」に対して、ネガティブに過剰反応するような生徒もいるわけだけれど、そんな受講生に対しては、人間的な・・、そう、とても素敵なフォローアップも欠かさない。

その心理マネージメントは、ホントにレベルを超えていた。

私は、ベーレント先生という、「異文化のリーダーシップ」を肌で感じることで、何かを、感覚的に学んでいたと思う。

それは、とても、とても刺激的な毎日(ドイツ語コース)だった。

■午後のフリータイムでは、自分なりの日常を模索するようになった・・

ドイツ語コースは、午前中だけだから、午後は、完全にフリータイムになる。

もちろん夜は、週に3回はサッカーのトレーニングがあることで、とても充実していたけれど、それまでの午後のフリータイムについては、最初の頃、少し持て余し気味だったかもしれない。

もちろんドイツ語を自習すればいいんだけれど、部屋にこもって勉強する「だけ」というのも気が滅入る。

最初のころは、日本人受講生仲間のアパートを訪ねたりした。そう、前にも書いた、日本人が多く生活する、ドイツのカトリック教会が主管する学生寮だ。

でも、完全な日本語の環境だし、話題にしても、あまり食指が動くものではなかったから、徐々に、そんなフリータイムの過ごし方からも距離を置くようになっていった。

もちろん、前にもご登場いただいた、湯浅フジローさんや、日本の修道院である「聖園(みその)」のシスター・デレチアさんを訪問することもあった。

「そう・・元気に前へ進んでいるのね・・安心したわ・・」

デレチアさんだ。またフジローさんからも、同じような安堵の言葉をかけられる。

お二人とも、とても忙しい生活をおくっていた。もちろん、たまに尋ねたときは歓待してくれたけれど、基本的には、独立した個人の人生だからね、それに対して積極的に何かを意見するようなことは、ほとんどなかった。

要は、内容に応じてお願いすれば、助けられることは親身になって相談に乗ってくれるけれど、その他の個人生活については、「自分一人で切り拓いていくべき・・」というのが彼らの基本的なスタンスだったんだよ。

「でも結局は、自分自身で決断して行動しなければならないわけだからね・・」

一度、フジローさんに、サッカーやドイツ語コースのこと、また日常生活のことで意見を求めたことがあった(その具体的な内容は覚えていないけれど・・)。

そう、その頃、ちょっと気持ちや意志が揺らぐこともあったんだよ。

でも、そんな私の問いかけに対して、ほとんどのケースでフジローさんは、とても明確に、「それは、キミ自身の問題だよね・・」と突き放すのだった。

そして私は、「そうだ・・これはオレ自身の問題なんだ・・人に相談してラチが明くモンじゃない・・最後は、オレ自身の意志なんだ・・」と、気持ちが引き締まったものだ。

もちろんフジローさんにしてもデレチアさんにしても、「そうだよね~・・ドイツだから、そういうこともあるし、それで落ち込んだり心配になったりするのも無理ないよね~・・」などと、優しそうな(≒無責任な!?)言葉をかけることの意味をしっかりと分かっている。

彼らは、そんな「表面的な取り繕い」をするようなパーソナリティーではなかったんだ。だからこそ、とても信頼の置ける方々だった。

私は、彼らからも、とても貴重な心理トレーニングを受けていたと思う。そのこともあって、ドイツ語コースがない午後は、自分自身で、自分なりの(気持ちのよい!?)日常を積極的に模索するようになっていったんだ。

次の連載エッセイは、多くのエキサイティングな経験を積み重ねざるを得なかった「買い物」から入っていくことにしま~す。

(つづく)