My Biography(19)_ドイツ語コース(その1)

■ドイツ語コース・・

入学手続きが完了し、無事にケルン総合大学の学生証が手に入った。

さてこれで、晴れて、総合大学が主催する、外国人学生のためのドイツ語コースに参加できる。もちろん、タダだ。

カネをかけずにハイレベルな語学コースを履修できる。それは、ものすごく大事なことだった。

もし学生になれなかったら、一ヶ月に(当時のカネで!)20万近くも払って、ドイツ文部省キモ入りの「ゲーテ・インスティテュート」でドイツ語を学ぶしかなくなってしまう。

もちろんその費用には、一ヶ月の生活費も入っている。要は、合宿形式の短期ドイツ語集中講座ってわけだ。

でも私には、そんな支出など考えられない。

もちろん、一般の生活者が学べる「フォルクス・シューレ」という生涯学習組織もあるけれど、それでも費用は掛かるし、レベルだって知れている。

とにかく私にとって、総合大学が主催するドイツ語コースに入れるかどうかは、死活問題だったんだ。

だから、学生証が手に入ったときは、本当に、天にも登らんばかりの気持ちだった。

早々に、受講手続き(まあ受講者リストへの登録・・)を済ませ、教室のロケーションやタイムテーブルも確認した。もちろん、初級コースからはじめるつもりだ。

このドイツ語コース。もちろん、すべてがドイツ語で行われるわけだけれど、肝心の先生がどんな人なのか、まったく分からない。

サッカーでも、コーチ(監督)によって、発展の「量と質」に大きな違いが出てきてしまうけれど、それは、どんな「学習プロセス」にも共通していることだろう。

そう、サッカーでも勉強でも、もっとも重要なキーファクター・フォー・サクセ(KFS)は、「誰がグラウンド上で(教室で)指導するのか・・」ということなのである。

ということで、語学コースで教鞭を執る先生の「内実」について、出来る限り多くの情報を集めなければならないと思った。でも、情報源は!? さて~・・

そんなことに思いをめぐらせていたときだった。

ドイツ語コース教室の前にある掲示板に見入ってるところに、何人かのアジア人グループが近づいてきたんだ。たぶん彼らも、掲示されている内容を確認しにきたんだろう。

「日本の方ですか?」

キムさんの件があったから、ちょっと注意しながら声を掛けたっけ。でもそのときは、彼らが日本人であることを確信できていた。

雰囲気? 顔かたち? 着ているモノ?

さて~・・

多分そのときは、顔かたちと雰囲気が決定的なファクターだったと思う。

「あっ・・やっぱりそうだ・・あなたも日本人ですよね・・掲示板へ近づきながら、話し合っていたんですよ・・貴方が日本人かどうかってね・・日本人にしては、背が高すぎるから・・」

そのとき私は、1メートル90センチ近くあった(今では、少し縮んで187センチくらいかな・・あははっ・・)。

「でも私は、顔や雰囲気から、貴方が日本人だと確信していましたよ・・」

グループのなかの一人が、そう言って笑顔を向けてきた。

残念ながら、当時、サッカー以外で知り合ったり、ドイツ語コースを一緒に受講していた日本人の方々の名前は、まったくといっていいほど思い出せない。

一クラスの生徒は、十数人といったところだったけれど、そのなかの数人は日本人だったはずだ。でも、まったく記憶に残っていない。何故だろう・・

いま、このコラムを書きながら、うっすらとした「残像」以外、彼らについて、まったくといっていいほど記憶に残っていないことの意味についてちょっと考えた。

そのときは、目的を強烈に意識して生活していた。だから、ドイツ語とサッカー以外のコトに、まったく目がいかなかった(興味がなかった!?)ということなのだろうか・・。

まあ、いいや・・

とにかく、その時は、基本的な情報を仕入れたくて、彼らを質問責めにしたっけ。

・・私はドイツ語はまったく初心者なのですが、どの先生の授業を受けたらいいと思いますか?・・外国人学生が受けなければならないドイツ語のテストって、どんな感じですか?・・皆さんは、ドイツに来て、もうどのくらいになるんですか?・・等など・・

■留学生が合格しなければならないドイツ語テストは難関・・

「そうだな~・・まあ、一番大事なコトは、ドイツ語の試験には、2ゼメスターが終了するまでに合格しなければ退学させられてしまうということだろうね・・あっと・・頼み込めば、もう1ゼメスターの猶予はもらえるけれどね・・」

ゼメスターとは、1年を半分に区切った一つの学期のことだ。

まあ、国や大学によっては、1年を「3学期」に分けるところもあるらしいけれど、ケルン総合大学は、年間を二つに区切っていた。

一つは、春先からはじまって夏前に終わる「夏ゼメスター」。そして、秋から、越冬する「冬ゼメスター」。

ということは、ドイツ語試験には、一年以内に合格しなければならないということか。

「そうそう・・たしか、あの、日本の大学でドイツ語を教えている先生が、その猶予ゼメスターで、やっと合格したって言ってたよな・・あの先生・・ドイツ語 が専門だって言ってたけれど、このままじゃ日本の大学へ戻れないって、最後は、必死に勉強していたっけね・・あははっ・・」

「そうそう・・箔(はく)を付けるためにドイツへ留学してきたのに、あのまま帰国したら、面目丸つぶれだって言ってたよ・・」

そして、その発言をした留学生が、私の方を向いて、こんなことを言うんだ。

「貴方も、本当に一生懸命に勉強しなきゃ、簡単にはドイツ語試験に合格できないよ・・ドイツ語は、まったく出来ないんでしょ?・・実はオレも、もう2ゼメスター過ぎちゃったから、これから猶予ゼメスターに突入するんだよ・・フ~~・・」

「まあ、ケルン総合大学でダメだったら、他の大学へ転校してドイツ語をつづけるっていう裏技もあるらしいけどサ・・」

私は、そんな彼らのハナシを、注意深く聞いていた。

大事な情報としては、ドイツ語試験は、とても難しい・・そして、2ゼメスターが終わるまでに合格しなければ大学を追い出される・・そんなところだった。

「それで、評判が良いのは、どの先生ですか?」

「あっ、そうか・・そうだな~・・最初は、あの女の先生がいいんじゃないかな・・大学院生の彼女は、ソフトだし、教え方も丁寧だからね・・」

「厳しい先生は、どの方ですか?」

「厳しい先生!? そうだな~、ヘル・ベーレントじゃないか・・あの先生の授業は厳しいから、みんな敬遠しているよな・・」

ヘル(Herr)とは、英語のミスターに当たる。

「そうそう、あの先生は厳しいよな~・・」

別な留学生が、肯きながら、同調していた。

ちなみに、そのドイツ語講座で教えているのは、高校の国語の先生とか、大学院生(教育実習!?)など、様々な立場の方たちだった。

「どうもありがとうございました・・大変参考になりました・・今後とも、よろしくお願いします・・」

そう言うと、私は、必要な生活用品を調達するために、街中へ向かおうとした。

「えっ・・もう行っちゃうの?・・オレ達の学生寮においでよ・・すぐそこだから・・他にも、日本人がいるからさ・・」

■学生寮・・

そうか、学生寮か・・

ちょっと興味があった。だから、彼らの後について、大学キャンパスに隣接する彼らの学生寮を見学することにした。

パプスト・ヨハネス・ブルゼ。

それが、その学生寮の名称だった。その言葉通り、ケルンの教会が主管者らしい。「主管」という表現が正しいかどうか分からないけれど、とにかく、寮長は神父さんだった。

聞くところによると、そこは、もちろん「聖園」とも関係が深いらしい。でも、そのときは入寮者が一杯で、まったく空き部屋がないとのこと。たぶん聖園のデレチアさんも、まず「そこ」をイメージしたのかもしれない。

でも、後から知ったのだけれど、湯浅さん(フジローさん)が、デレチアさんと話し合い、最初は学生寮ではなく、一般のアパートにしたほうが私にとっていいと判断したらしい。

そう、様々な意味を内包する「独立独歩の日常生活」をイメージしたのだ。

その意味でも、今でも、湯浅さんとデレチアさんには、いくら感謝しても足りない。

■学生寮だからこその「閉鎖コミュニティー」・・

8階建てのパプスト・ヨハネス・ブルゼには、多くの日本人学生が生活していた。なかには、体育大学の学生もいたと覚えている。

ケルンには、三つの国立大学がある。総合大学、音楽大学、体育大学。そこで学ぶ日本人学生が大挙して生活しているってな感じだ。

私が、掲示板の前で知り合った日本人グループに連れられていったときも、彼らが生活している階の、キッチンやリビングルームが設えてある協同スペースで、何人かの日本人が、楽しそうに話していた。

なかにはドイツ人や他の外国人学生もいたけれど、マジョリティーは日本だった。

そのなかに我々が入り込んだモノだから、その協同スペースは、すぐに「日本」と化してしまった。そこでくつろいでいた(!?)ドイツ人学生が、早々に退散していったのも道理だ。

そのとき、協同スペースを出ていくドイツ人と目が合った。

私は、すまなそうな表情で、肩をすくめながら彼を見送ったのだけれど、それに対して彼は、余裕の微笑みと、ダイジョウブ・・ってな感じのジェスチャーを残していってくれたっけ。

そんな彼のリアクションにも、何かしら、ドイツ社会に綿々と受け継がれている伝統や文化の一端を感じたものだ。

いや、そのときは、単に、「自分の時間とスペースを占拠されたのに・・余裕があってカッコいい態度だな~・・」なんて思っただけかもしれないけれど。

日本人の学生連中は、毎日、こんなふうに「日本社会」を作りだしているのだろうか・・

その後、何度かパプスト・ヨハネス・ブルゼに寄ったけれど、協同スペースが、日本人留学生による「閉鎖コミュニティー」になっているケースが多かったっけ。フ~~・・

もちろん、大学に関する情報を交換するなど有意義な会話もあったけれど、逆に、ドイツ社会やドイツ人に対する悪口といった、後ろ向きの会話も目立っていた。

たしかにドイツ社会でイヤな思いをすることは日常茶飯事。それでも積極的にドイツ社会に入っていこうとしなければ、留学を有意義なモノにすることなんてできやしない。

あっ・・そうか、この「日常生活でイヤな思いをする・・」という現象の背景には、どんな心理メカニズムが働いているのか(!?)等というテーマもあったっけ。

まあ、それについては回を改めるけれど、そこには、主体的(主観的)な感性と、第三者的な中立の(客観的)感性の「せめぎ合い」といったディスカッションも含まれているよな。

それは、客観性が主流になった感性を「自分のモノ」にする(人とのコミュニケーションでの瞬発力をアップさせる!?)ためのトレーニングとか、とても興味深いテーマだと思う。

あっと・・、学生寮での「閉鎖コミュニティー」というテーマだった。

とにかく、「日本集落」に入りびたる日本人留学生の多くが、ドイツ語の上達がはかばかしくなかったり、本物のドイツの友人ができ難かったりという人たちだったと記憶している。

そして彼らは、「ドイツ人の柔軟性のなさには、ホントに閉口させられるよ・・」とか、「アイツらには日本人の繊細な心を理解できるはずがないよな・・」などなど、そんなグチや悪口を話題のマジョリティーにしてしまう。それじゃ・・

私には、彼らが、そんなことを口にするほどドイツ人やドイツ社会のことを理解しているとは思えなかった。

いま考えたら、周りには(日本人以外の寮生たちには!?)、ドイツという「共通の敵」を酒の肴にしてマスターベーションしている、精神的に不健全な(劣等コンプレックスに苛まれている!?)外国人グループといった風に見えていたのかもしれない。

そんなだから、積極的で独立心の旺盛な日本人たちが、自然とその「閉鎖コミュニティー」から離れていくのも道理だった。

■ところでドイツ語・・

私は、ほとんどドイツ語ができない状態で渡独してしまった。だから最初は、まさにゼロからのスタートだった。そう、初級コース。

武蔵工業大学(東京都市大学)時代、ドイツ語を履修しようとしたこともあったけれど、先生の発音がヘタだったし、やっているのは小難しいドイツ書籍の解読など、内容があまりにも詰まらなかったことで、半年で通うのをやめてしまった。

それは、まるで高校の英語授業そのまま。それを履修することが、実際のコミュニケーションに役立つとはまったく思えなかった。

そんなことだったら、NHKのドイツ語講座をやっていたほうがマシだ。

とはいっても、基本的な文法は、なるべく早くマスターしなければならない。ロジックなドイツ語だから、特に、文法が決定的に重要なのだ。

それがなければ、いくら生きた言葉をしゃべろうとしても、結局は「幼児言葉」になってしまう。

やはり、ドイツの文化環境にとけ込だ、意義深い「日常」を作りあげるためには、コミュニケーション手段を、なるべく早く、しっかりと整えなければならないのだ。そう、活きたドイツ語。

「ワタシ、ニンジン、買う・・」。こんな幼児言葉で買い物をしている外国人の主婦をよく見かける。

彼らは、システマチックにドイツ語を習ったことがないのだろうし、日常でも、ドイツ人とのつきあいがほとんどないというのが現実かもしれない。

彼らには、ドイツ語をしっかりと学ぶことに対するニーズがない。ドイツ社会に根を張った外国人社会が彼らの日常だし、そこでは母国語だけで用が足りるのである。

ドイツには、経済の隆盛期にドイツへ出稼ぎにきた、何百万人というトルコ人が生活している。

もちろん二世、三世も多い。そんな若い世代では、ドイツ語、トルコ語の両方ともネイティブというのが常識だが、最初にドイツへきた第一世代の人々はそうはいかない。

仕事では当然ドイツ語を話すが、それも限られた言葉だけでコト足りるケースがほとんどだ。

そして仕事のあとは、現地のトルコ社会で日常を過ごせばいい。彼らは、ドイツ語を必死にマスターしなければならないという状況にはないのである。

でも私は、そのドイツ語で大学の授業を受けようとしている。

最初は、2ゼメスターしか時間がないことも含め、様々なプレッシャーがあった。

自分が選んだ道。もう逃げ出すことなどできない。退路は既に断たれているのだ。

でも、そんな「現実」と逃げずに対峙しつづけることで、徐々に気持ちが落ち着いていったことを思い出す。

まあ、その落ち着きの背景には、(分不相応な!?)サッカークラブのテストトレーニングで、様々な厳しい現実を突きつけられ続けたということもあった(回を改めて書きます・・)。

要は、現実と、開きなおって対峙していかざるを得なくなったということなのだろう。

もう「こうなったら」、現実をしっかりと受け止め、それに対して、できる限りのチャレンジを積み重ねていくしかないじゃないか・・

そして私は、ドイツ語コースでも、ヘル・ベーレントの授業を選ぶことにした。

(つづく)