My Biography(53)_大ケガ(その3)・・(2015年10月29日、木曜日)
■ケガの内実が、徐々に明らかになっていく・・
そのとき、若手の担当医が何を言っているのかよく理解できなかった。
そりゃ、そうだ。ドイツへわたって「まだ」2年という当時の私のドイツ語力は、推して知るべしだったのだ。もちろん、彼のハナシに医学的な用語が多かったこともあった。
担当医は、レントゲン写真を指し示しながら、冷静に、そしてゆっくりと説明する。とても忍耐強く。彼には、私がうまく理解できないことが手に取るように分かっていたようだ。
そんな優しく冷静な態度に、ドキドキだった気持ちも徐々に落ち着いていった。何せ、ケガの状態が、とてもシリアスであること「だけ」は、ヒシヒシと感じていたわけだから。
そういえば、担当医の方は、心理マネージメントにも長けていたっけ。
後でウリに聞いたハナシだけれど、大学では、そんな、患者に対する「心のケア」も育成プログラムのなかに取り入れているらしい。
その担当医の方は、最後は、自分で描いたスケッチまで使って、現状と、これからどのような手術が施されるのかを、丁寧に説明しようとしてくれたんだ。
そして私にも、これからのコトが、徐々に「見えて」きた。再び、ドキドキが高じてくる。
そのスケッチだけれど、そこには、足首と、膝から下の脚部(下腿)が描かれていた。
下腿は、二つの骨で成り立っている。
一つが、太く、基礎的な「支柱」として機能する頸骨(けいこつ)。そしてもう一つが、足首関節の安定性機能にとって欠かせない、細い腓骨(ひこつ)だ。
そして私のケガの状態は・・。
そのレントゲン写真に写し出されてた私の足首は、説明を受けながら見てみると、とても醜(みにく)い状態だった。
何せ、足関節(足首)に接続している腓骨が、タテ方向に、まるで「螺旋(らせん)を描くように「裂けて」いたんだから。また足首の関節も、かなり損傷しているようだった。
その状態を、レントゲン写真とスケッチをつかって詳細に解説してくれた担当医の方は、次に、これからの治療方針についても簡単に説明してくれた。
もちろん手術のことだけれど、その理想ターゲットは、何といっても、足首関節の機能を元通りにすることだ。
彼が言うには、まず腓骨のタテに裂けた部位を「金属プレート」で固定し、そして足首関節周りの骨のポジションをしっかりと安定させるという。
「歩けるようになっても、一年間は、動きが不自然に感じられるだろうな・・でも、まあ半年も経ったら慣れるよ・・このような厳しいケースは、オレもあまり経験はないけれど、人間の身体って、状況に合わせて柔軟に対応できるように出来ているんだよ・・」
私は、ちょっと意気消沈気味に、ハナシを黙って聞いていた。
「そして1年後に、金属プレートを取り出すというわけだ・・まあ一年も経てば、足首の関節も、ほぼ自然に機能しているはずさ・・心配しなくてもいいからね・・」
そんなコト言われたって・・
■そして手術の日取りが決まった・・
「ただ、この状態じゃ、いますぐに手術ってワケにゃいかないんだよ・・何せ、骨折したトコロが大きく腫れ上がっているからな・・まあ、一週間後っていうタイミングかな・・」
・・一週間!?・・フ~~ッ・・
そのときは、なるべく早く、自分が置かれた状況を「良い方向」へ進展させたかった。要は、次の(心理的な!?)目標イメージをもちたかったんだよ。
そう、希望。
・・とにかく、状況がこれ以上悪くなることはない・・どん底からの再スタートだけれど、早く、そこから這い上がっていくプロセスを体感したいんだ・・それがあって初めて、希望が見えてくる・・
でも、担当医の方が、希望へ向けたプロセスをスタートさせられるまでに、まだ一週間も待たなければならないと言うんだよ。そりゃ、落ち込むのも無理なかった。
そのときの心の揺動は、いまでも鮮明に覚えている。
私は、とにかく、これからどうなるのか・・どうするのべきなのか・・について、「確信できるイメージ」をもちかったんだ。
もちろん、耐えるしかないことは理解できた。でも、若かったこともあったんだろう、そのときの私にとって、何もせずに「ただ待つ」ことは、拷問にも等しかったんだ。
そのとき、私の表情をのぞき込んでいた担当医の方が、こんな言い方で落ち着かせてくれるんだよ。彼には、私の心情が手に取るように分かっていたんだろうね。
「キミは学生だから、経済的な負担は、ゼロだからね。その点については、まったく心配することはない。たしかに、大学での勉強についちゃ、身体が資本の体育だから不安だろうけれど、とにかく我々を信じて欲しい。とても優れたプロフェッサーもついているから・・」
そんな彼の言葉に、不安が和らいだだけじゃなく、(ドイツの社会システムに対しても!?)感謝の気持ちも湧いてきたっけ。
特に、入院と手術の費用について言及されたときには、まず「ハッ」とし、そして「フ~~ッ!」と胸をなで下ろしたんだよ。
そのときの私には、「そこまで」考える余裕なんて、まったくなかったわけだから。
■病室で・・
もちろん個室なんかじゃない。
たしか、四人部屋だったと記憶しているけれど、そのときのルームメイトの方たちについては、まったく覚えていない。
でも、看護師の方々については、うっすらと覚えている。
女性がほとんどだったけれど、彼女たちは、例外なく、強烈なパーソナティーの持ち主だった。
もちろん、なかには、とても優しいタイプの方もいたけれど、基本的には、すごく合理的。物理的な目的を果たす(要は、彼女たちのルーチンワークをこなす)ことが、患者に対する心理トリートメントに優先するっちゅうわけだ。
でも一人の看護師さんとはウマが合った。
「アナタ、日本からの留学生だってね・・それにしちゃ背が高いわね~・・そうそう、あと数日で手術らしいけれど、プロフェッサー自ら執刀することになった らしいのよ・・アナタの場合は、かなり難しい手術になるから、プロフェッサー自身も興味があるって言っていたな・・彼はスペイン人で面白い人だけれど、と ても優秀なドクターでもあるから、まあ心配ないよ・・」
彼女の名前は何といったっけ・・。
不思議なことに、学校で一緒にミニサッカーに興じていた知り合いの学生や、応急処置をしてくれたプロフェッサー、そして病院で知り合った方達など、このケガに関わった人たちの名前は、本当に一人も覚えていない。
それって、心のなかで、早く忘れたい出来事だったからなんだろうか!? さて~・・
入院生活でよく覚えているのは、その看護師が毎日、消灯前に、血栓症予防のため(!?)注射を打ってくれたことだった。
たしか、二の腕の「裏側」に打たれたと思うのだが(脚のどこかだったかな!?)、そのたびに彼女が、「アンタの身体は丈夫そうだね~・・」などと冗談を言っていたことを思い出す。
もちろん注射を打つ箇所は、毎回、少しずつ変えるのだけれど、毎日だから、入院の最後の頃は、注射を打たれつづけた部位が、少し硬くなってしまったっけ。
そして、手術の日がきた。
(つづく)