My Biography(25)_ケルンNo.1プロクラブ(1.FC.Köln=FCケルン)アマチュアチームへのチャレンジ(その5)

■サッカー選手に必要なモノ・・

その後の3週間、1.FC.Kölnアマチュアチームのトレーニングに参加しつづけた。

もちろん、慣れていくにしたがって、プレーは安定してきたし、そのことで自信が芽生え、心に余裕も出てきた。

そのことは、パスを受けたときの(相手プレッシャーにも動じない!?)ボールコントロールやキープだけじゃなく、そこからの「確実な」パス展開でも体感できていた。

でも・・

そう、プレーに余裕を持てるようになったからこそ、チームメイトたちとの、本当の意味の「チカラの差」を、より冷静に分析できるようにもなっていったんだ。

サッカーで良いプレーをするためのバックボーンには、色々ある。

身体のサイズ、スピード、パワーなどのフィジカル要素。ボールを扱うテクニックやスキル。戦術的な能力(理解力や応用力など)。もちろん、心理・精神的な部分も、とても大事だ。

あっと・・、それにもう一つ。そう、運。

ちょっと非科学的かもしれないけれど、サッカー選手のなかには、本当に「ツキを呼び込める」ヤツがいるんだよ。

ソイツの自信&確信オーラが、周りの雰囲気を「そちら」へ引っ張っていく・・というか、何らかの「スピリチュアルエネルギー」が放散されているというか・・。あははっ・・

そんな、サッカーに必要な様々な要素のなかで、私に(決定的に!?)足りていなかったモノには、前回コラムで書いたフィジカル要素だけではなく、それまでの私の生活にかかわる(日本の生活文化的な!?)要素もあった。

■サッカーの基本的なメカニズム・・

私は、サッカーのことを、「自由なボールゲームだ・・」なんて呼ぶことがある。

まあ、「最後は自由にプレーせざるを得ない・・」という表現の方が的確かな。

サッカーでは、イレギュラーするボールを、身体のなかでは比較的ニブい足を使って扱わなければならない。だから、ミスはつきものだし、そのことで、瞬間的に状況が大きく変わってしまうのも日常茶飯事なのだ。

そんなサッカーだから、常に「主体的」に判断、決断し、勇気と責任感をもってリスクにもチャレンジしていかなければ、良いプレーなど望むべくもない。

サッカーは、最後は『自由にプレーせざるを得ない』ボールゲームであり、その「高い自由度」こそが、他を寄せつけない世界ナンバーワンスポーツである所以なのだ。

もちろん近年のグラウンド(芝の状態)は、かなり平坦に整備されている。だから、味方同士のプレー(パス)は、ある程度はうまくつながっていく。

とはいっても、予想を越えた状況は、常に起こり得るのがサッカーなんだ。

ちょっとでもイレギュラーバウンドして、パスを止めるのに時間がかかったり、トラップをミスってしまったら、その瞬間に、アタマに描いていたプレーを諦めざるを得なくなる。

そしてそこからは、自分の(自分一人の!)判断と責任で、勇気をもって状況を打開していかなければならないというわけだ。

そのことが、とても重要なポイントだ。自分一人の責任で、リスクへもチャレンジしていかなければならない・・。

私が何を言いたいか、もうお分かりだと思うけれど・・

そう、日本人にとって、それほど不得手な状況はない。集団主義をベースに教育された日本人は、「そんな状況」に立ち向かっていくトレーニングが十分ではないと思うのだ。

かくいう私も、例外ではなかった。

もちろん最近では、日本人(若い世代)のメンタリティーは、かなり「個」が前面に押し出されるようにはなっている。それに対して、私が、自我の芽生える年代の学校教育を受けたのは、1950~60年代のことだからね。

それでも私は、当時としては、かなり独立したマインドを持っていたと自負してはいたと思う。でもサ、対峙するのは、徹底的に「個」をベースに教育されたドイツ人だからね、そんな彼らの、自己を前面に押し出す「パワー」に対抗できないのも自然な成り行きだった・・と思う。

あっと・・

言いたかったのは、当時の私の場合、サッカーに必要な要素のなかで、特に心理・精神的な部分が大きく劣っていたということだ。

もちろん、1.FC.Kölnアマチュアチームの選手たちは、ドイツのなかでも選ばれたヤツらだから、フィジカル的な要素だけではなく、そんな心理・精神的な部分でも、かなり差をつけられていたと感じていたのである。

まあ、とはいっても、テクニックとか戦術的なチカラ(チームプレー的な理解力や応用力)では、そこまで劣っているとは感じていなかったけれど(過信!?・・あははっ・・)。

その、心理・精神的な要素だけれど、それは、「意志のチカラ」というふうに言い換えられるかもしれない。

■サッカーは意志のスポーツ・・

前項で、サッカーは、不確実な要素が満載されているからこそ、最後は自由にプレーせざるを得ないボールゲームだと書いた。

そこで、その背景ファクターに考えをめぐらせるんだよ。

そして、ハタと思い出すんだ。

そう、サッカーは、自由度がとても高いが故に、本質的には「積極的な意志のスポーツ」だということを・・。

それは、そうだ。

特に現代のプロサッカーでは、優れたプレーを展開するためのもっとも重要なファクターは、攻守にわたって、いかに実効ある「汗かきのハードワーク」をつづけられるかということなのだ。

攻守のハードワーク・・。

それは、最前線から必死に相手ボールホルダーを追いかける忠実なディフェンスとか、攻撃では、パスを受けるために、ボールがないところでも、しっかりと全力スプリントを繰り出すようなような「汗かき」のサポートプレー等のことだ。

特に現代のプロサッカーでは、そんなハードワークの量と質を、いかに効果的にアップさせていくのかというテーマが、監督・コーチの主要な課題になっているのである。

人間、誰しも、楽してカネを稼ぎたいはずだ。もちろん私も例外じゃない。

でも、サッカーでは(もちろん世の中のほとんど全ての活動もそうだろうけれど・・)、そんな、効率性の追求を行動原則にすることは、「百害あって一利なし・・」なのだ。

私は、そのメカニズムを、『優れたサッカーは、クリエイティブなムダ走りの積み重ね』だと表現することにしている。

優れたサッカーは、そこに不確実な要素が山積みだからこそ、(積極的で前向きな!)ミスを積み重ねることでしか実現できないのである。

そして、だからこそ、攻守の汗かきハードワークを積み重ねるなかで、いかに勇気をもってリスクにもチャレンジしていくのか・・というテーマを突き詰めていく姿勢こそが問われるのだ。

そんなプレー姿勢が、積極的な意志からしか生み出せないことは自明の理だと思う。

ちょっと、ロジカルな(退屈な!?)内容がつづいてしまって恐縮なのだけれど、この、「サッカーが秘める本質的なメカニズム・・」というテーマを外すわけにはいかなかった。

ついでだから、こんな主張もさせて下さいな・・。

サッカーは「積極的な意志のスポーツ」であり、だからこそ、21世紀日本社会のイメージリーダーに「も」なり得る社会的な存在だ・・ってね。

私は、1.FC.Kölnアマチュアチームで過ごした時間のなかで、クリストフ(ダウム)をはじめとしたチームメイトたちとの、ビールを酌み交わしながら のディスカッションを通して(英語ベースだったから、そう簡単じゃなかったけれど・・)様々なことを考えさせられたのだった。

■そして「現実」と対峙するときが・・

そうそう、1.FC.Kölnアマチュアチームでのトライアル(テストトレーニング)のハナシだった。

たしかに、局面でのボールコントロールなどでは、大きく「ひけ」を取ることはなかったと思うけれど、徐々に、彼らのスピードやパワー、また組織パスコンビネーションの流れなどに「ついていく」のが辛(つら)くなっていったのも確かな事実だったんだ。

何が、もっとも辛かったかって!?

そりゃ、自分の(意志の!?)チカラが、ヤツらに遠く及ばないという事実を自覚させられたことだよ。

スピードやパワーで後れを取るのは仕方ないにしても、積極的な意志が求められる戦術的なコンビネーションでも、お荷物になってしまうような辛いシーンがつづいたんだ。

前述したように、仕掛けていかなければならないケースでも、ミスを冒すことが怖い(!?)私は、チャンレンジャブルな仕掛けパスよりも、安全第一の横パスとかバックパスに逃げてしまうんだよ。

周りでは、私からの「勝負パス」を受けるために、チームメイトが全力で走り回っているというのに・・。

そして、私が、リスクへチャレンジしていかないことは、ビーザンツさんだけではなく、チームメイトたちも、明確に意識するようになっていた・・と思う。

でも、誰も何も言わないし、いつものように、親切に接してくれる。でも私にとっては、そんな彼らの態度も、とても辛かった。

そして、3週間が経ったところで、ビーザンツさんのオフィスに呼ばれたというわけだ。

「キミは器用だし、ボール扱いも上手いよ・・でも、自分でも自覚していると思うけれど、今はまだ、このチームの戦力としては考えられない・・」

ビーザンツさんは、とても注意深く、言葉を選んで話してくれた。その言葉のなかでは、「まだ」という表現が、とても印象に残ったことを覚えている。

その言葉に救われた思いがしたんだよ。

「キミには別のチームを紹介しよう・・そこでチカラを付け、またウチでトライすればいい・・そのときは、私に直接コンタクトを取ってくれて構わないよ・・」

まあ、いつかは言いわたされると思っていた。でも、実際に現実と対峙させられると、やっぱり、ショックだった。

「・・I understand・・」

そのときは、その言葉を絞り出すのが精一杯だった。