My Biography(5)__ドイツへ・・ソ連(モスクワ)という異次元の体験(その2)

■モスクワ空港・・やっと、これからの展開が明らかに・・そして絶句・・

「フランクフルトへ出発される方々は、ここで一泊し、明朝の便で飛んでいただくことになります・・」

待合スペースの至るところから、戸惑いや不満の声が上がる。でもその係員は、まったく意に介さずにハナシをつづけるんだよ。

「ベルリン行きの乗客は、いまから五番ゲートへ移動してください。またフランクフルト行きの乗客は、わたしについてきてください」

発音がわかりにくかったのだろう、女性の日本人客が、いまにも泣き出しそうな表情で、「何いっているか分からない。いったいどういうことなの。わたしたちどうなっちゃうの?」と言ったとたん、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。

私が説明すると、もっと不安がつのったのだろう、今度はわたしに食ってかかってきた。

「いったいどうなってしまうの? わたしの荷物は? フランクフルトでは、友達が迎えに来ているのよ。どうしよう。ねえ、何とかして!!」

そういわれても・・

とにかく、もっと状況を詳しく説明してもらうのが先決だ。だから、その係員に英語で話しかけてみた。

「申し訳ないんですが、フランクフルトへの次の便のことや、どんなホテルに泊まるのか、私たちの荷物はどうなるのか。食事のことなど、もっと詳しく説明してもらえませんか」

「すべて問題ありません。とにかく、私についてきてください」

「でも、私たちは今日フランクフルトに到着する予定だったから、迎えとか、いろいろと連絡しなければならない人もいるでしょう!」

「それも問題ありません。後で対応します」

その後は、私が何をいっても取り合ってくれない。これはダメだ。そして、まったく情報がない不安な状況がつづくのだった。

■とても興味深かった「心の動き」・・

・・もう、こうなったら彼らに任せるしかないようですね・・かごの中の鳥なんですから・・ここでジタバタしても、何もはじまらないですよ・・でもホントは そんなに心配する必要などないかもしれません・・彼らだって、少なくても、われわれの基本的な人権は守らざるを得ないでしょうから・・

私は、彼女だけではなく、周りで不安そうに聞き耳を立てている日本人の乗り継ぎ客たちにも聞こえるように、そんな気休めを語りかけていた。

でもサ・・、オレだって不安でいっぱいなのに、どうして他の人のことまで心配しなければいけないんだ!?

そして自分自身に対しても、「こんなことになってしまって本当にアタマにくるけれど、もうかごの中の鳥も同然なんだから、ジタバタしてもはじまらない・・」などと言い聞かせるのだ。

そう考えると、ちょっと気持ちがフッ切れ、少しずつ楽になっていった。そして、ハッと気付くのですよ。

・・えっ!? かごの中の鳥!?・・それって、さっき、オレが周りの方たちに語りかけたのと同じフレーズじゃないか・・

・・そうか~・・周りの人たちの不安オーラを感じていたからこそ、逆に自分は(周りから必要とされているかもしれないと思い上がって!?)、冷静に状況を判断できたし、周りを落ち着かせるような言葉も出てきたっちゅうことか・・

・・ホント、人の感性って、そのときの状況に大きく左右される「相対的なモノなんだよな」・・もしオレが独りぽっちだったら、どうだったんだろう・・また、他の、リーダーシップの強い人が、強力な個性で別なコトを主張したら・・フ~ッ・・

まあ、そんなこんなで、我々、フランクフルトへの乗り継ぎ客グループは、徐々に落ち着きを取り戻していった(諦めの胸中に入っていった!?)っちゅうわけです。

そこから、旧式のバスに乗せられて10分。彼らがいう「ホテル」へと移動させられた。

バスを降りると、自動小銃を小脇にかかえた兵士が遠巻きに見守るなか、ベニヤ板で囲まれた細い「通路」に導かれた。そこが入り口らしい。

そこを通り抜け、レセプションホールに入ったところで、あろうことか、今度はパスポートまでも取りあげられてしまった。絶句・・

私もふくめ、乗り継ぎ客は全員、諦めというか、無力感まで漂わせるようになっていた。かごの中の鳥よろしく、もう、なるようにしかならない・・っちゅうフッ切れた心境!?

さきほどの女性も、そこでは静かにしていた。というより、脱力して椅子に座り込み、立ち上がる気力もないといったほうが正確な表現かもしれない。

社会(共産)主義ソサエティー。その支配者たちは、人々から自由を奪い、管理することにかけては、右に出る者はいない。

そんな状況を思い出していたとき、唐突に(後に私の親友になる)ウリ・ノイシェーファーの顔が脳裏に浮かんだ。ヤツは、こんな環境で24年間を過ごしたんだった。

ウリは、1974年、東ドイツから車のトランクに潜んで「亡命」してきた。彼は、残された家族が迫害されることを承知の上で「人生の決断」をした男だ。

ウリ・ノイシェーファーの逃避行については、機会を改めて書くことにしよう。

■ルームメイトの金子さん・・

ということで、モスクワのホテル。

私たちは、何はともあれ、ホテルの部屋に落ちつくことができた。二人部屋だ。その部屋割りも、もちろんロシアの官僚が支配する。

私と同室になったのは、ドイツへ工業デザインの勉強にいくという30代前半の男性だった。

「フ~~ッ! いや~、まいったね」

金子さん。そのルームメイトの方は、たしか金子さんといった。

その金子さんが、そう溜息をつきながらベッドへ倒れ込んだ。

「安いからアエロフロートにしたんだけれど、こんなことになるなら、少し高くても、ルフトハンザにしておけばよかった。ボクみたいな貧乏人には、痛い出費 になるけれどね。でも、まあ、こんな経験、おいそれとできるわけじゃないから、ここはもう、しっかりと記憶に留めておくしかないよね・・」

金子さんは、そんなことを喋りながら屈託(くったく)なく笑う。そんな余裕の態度が、私の気持ちを和(なご)ませてくれた。

わたしのルームメイトは、いい人のようだ。よかった。これで性格の悪い人や外国人と一緒にされたら、それこそ神経がまいっちゃう。

私たちはよくしゃべった。彼は、そのときが三度目のドイツだという。わたしも、二年前のドイツ旅行の体験を話した。

「そうか、キミはサッカーの勉強にいくのか。私はデザインを学ぶためだけれど、勉強といっても、知識や情報を得るだけなら、日本にいた方が有利だし、ドイ ツへいく必要なんてないのかもしれないよね。でもさ、異なった文化に身を置くことで、いろいろと貴重な体験ができると思うんだよ。どちらかといったら、自 分をもっと自由にしたいからドイツへ行くといった方が、ボクの場合は正しい表現なのかもしれない」

「自分をもっと自由にする??」

「そうなんだよ。自分の内側にある固定観念から自由になるとかさ、そういうことなんだけれど」

「外国にいったら、考え方や感じ方、生活のやり方なんかで違う部分が目についてくるだろうし、その意味を考えはじめるようになると思うんだ。それは貴重な体験なわけだけれど、そこで大事なことは、その違いを自分の尺度で捉えないということだね」

「それは生活文化にかかわる感覚的なことだから、どちらが良いか悪いかなんてことは言えないものね。僕はデザイナーだから、想像力や創造性を発展させるためにも、そんな柔軟な態度が大事だと思うんだ」

それまでの私は、文化について考えたことなどなかった。でも、彼が言わんとした、「違い」を素直に受け容れる・・という考え方には、とても強く共感したことを覚えている。

■夕食は、ワインとともに楽しい語らいの場になった・・

そんな会話がつづいていたとき、廊下で、大きな声が響きわたった。

「ディナ~~ッ!!」

そこは閑散とした大ホール。装飾的なモノは何もない。もちろん食欲をそそる雰囲気など、カケラも感じない。

実際、出てきた料理は、硬くて噛み切ることができず、最後は、塊をゴクンと飲み込むしかないような焼き過ぎのステーキと、新鮮さの対極にあるような萎(しな)びたサラダ、そして中途半端に茹でられたジャガイモ。

まあここは、最初で最後のハズだから、我慢するしかない。

ドイツの日常がはじまってからの耐乏生活は目に見えているし、そのためにも、いいトレーニングだと思えばいい・・。そんなことを考えていた。

私は、食事にこだわる方ではない。というよりも、味に鈍感といった方がいい。

ほとんどの料理を「美味しく」食べられるとも言える。要は、「食」に関する私のサバイバル能力は、とても高いのだ。自慢じゃないけれど・・あははっ・・

ただ、そんな私でも、モスクワの「監獄」で出された食事にだけは閉口した。

とにかく、今でもその「ホテル」で出された夕食のことは鮮明に思い出せる。本当に、それほどヒドイものだった。

「もう食べるのはあきらめて、ワインで栄養をとることにしようか」

隣に座っていた金子さんは、そう言うと、アルコールを販売しているカウンターへ向かった。

もちろん、ドルやマルクといった外国通貨しか使えないのだけれど、そこの販売員だけは終始にこやかに対応していたっけ。

ソ連へやってくる西側のツーリストに外国通貨を使わせることは、共産党の官僚にとって重要な仕事の一つなんだよ。愛想ある対応も当然か。

もしかすると、フランクフルト行きの飛行機がキャンセルされたのも、我々に一日長くモスクワで過ごさせるための口実だったりして・・

そういえば、フランクフルトへ行く乗り継ぎ客の方が、ベルリンへ向かった人たちよりも何倍も多かったっけ。

言うまでもないだろうけれど、当時のベルリン(もちろん西ベルリンのことだよ!)は、東ドイツの中央部に位置する「陸の孤島」みたいな存在だったから、政 治的にも、経済的にも、また文化的にも、とても「特殊」な立場にあった。だから、ベルリンへ向かう人は、数的にも少なかったし、その目的にしても「特殊」 なものが多かったんだよ。

ということで、当時の西ドイツの「玄関」はフランクフルトだったから、そこへ向かう人数が多いも道理だったのであります。

あっ、そうそう、ワインで栄養を摂(と)るっちゅうハナシだったっけ。

金子さんは、何度もドイツへ行ったことがあったから、マルクの持ち合わせがあった。

もちろん私もトラベラーズチェックは持っていたけれど、それを使おうとしたら、交換レートを「買いたたかれて」大変なことになるのは目に見えていた。だから、そこは、金子さんに甘えさせてもらうことにした。どうもありがとうございました・・

金子さんは、赤ワインのボトルを一本購入した。さて、酒盛りだ。

周りの人たちは、一人、また一人と部屋へ戻っていったけれど、我々は最後まで残り、ホールを独占していた。

ソ連の官僚たちも、金子さんが赤ワインを買っただけじゃなく、もう一本ワインを買う「素振り」もみせていたことで(!?)、あえて我々を追い出すことはしなかった。

ただ我々は、それ以上ワインを買い足すことなく、ハナシに夢中になっていた。スミマセンね、ソ連の官僚さんたち・・

金子さんとの会話だけれど、その中心的なテーマは、日本の硬直した社会体質だったと覚えている。そう、本当の意味で「自由になる」ことの重要性と、その喜びと不安・・である。

金子さんは工業デザイナーとして、私はサッカー人として、「本場」から何らかの価値ある「権威」を持ち帰ることで、日本の既存システムとは別のところで、プロ(フリーランス)として独立するという理想イメージをもっていたのだ。

まあ、当時の日本サッカーには、プロへとつながっていく雰囲気など、カゲもカタチもなかったけれど・・ね。

とにかく、金子さんとは気が合った。だから、部屋に戻っても、延々と会話がつづいた。それは、とても、とても楽しい時間だった。

そして・・

■フランクフルトへ・・

ドンドンッ!!

ドアの音でたたき起こされたのは、朝の6時を少し回ったタイミングだった。

前夜のディナーの席では、係官が、「まだフライトの時間は分かりません・・とにかく決まったら余裕をもって起こしますから・・」と言っていたけれど、それが早朝の6時とは。

金子さんとのハナシが面白く、寝入ったのは3時ころだった。日本では午前9時というところか。そして起こされたのは正午頃。要は、徹夜で話しこみ、朝方に、ちょっと仮眠した・・ってな感じだったというわけだ。

「マシーン・スターツ・イン・トゥー・アワーズ!!」

ドアの外で大声が響きわたる。フランクフルト行きの飛行機は、二時間後に出発するということらしい。とにかく急がなければ。置いていかれちゃたまらない。

とはいっても、スーツケースは官僚の管理下にあるから、洗面台で顔を洗い、そのまま服を着れば準備完了だ。

となりに寝ていた金子さんも同様。ドアを叩かれてから10分後には、二人とも廊下に出ていた。他の乗り継ぎ客も、すぐに出そろった。

パスポートを返してもらったときは、本当にホッとした。それは、その時の私にとって、自分が誰であるかを証明できる、唯一の書類なのだ。

日本じゃ、周りの人々(コミュニティー!?)が、自分の存在を証明してくれる。それこそが、社会と呼ばれるモノの、もっとも大事な機能性の一つなんだろうな。

でも、外国や、知らない土地では(また都会でも!?)、何らかの証明書がなければ、自分は、社会に存在していないも同然なのだ。

返却されたパスポートを手に取ったとき、自分の存在は、この「紙」でしか証明されない(!?)と、ちょっとネガティブな感覚になり、そして逆に、自らを鼓舞するように決意をあらたにするのである。

いつかは、「紙」がなくても、自分が誰であるか周りに認知されるような存在になってやるぞっ・・ってか~!?

あっ・・スミマセン・・乗り継ぎのフライトだった。

その後は、また例の「通路」を通ってバスに乗り、10分ほど走って空港に到着した。途中、ソ連製の(!?)四角いクルマがチラホラ。そのなかに混じって、高級なメルセデスベンツも走っている。

時代に乗り遅れた感のある地元のクルマ。それに対して、まさに技術の粋を集めたという雰囲気を振りまくモダンなメルセデス。

やっぱり、「そちら」の方がいい・・。メルセデスを横目に見ながら、そう思った。

ところで、そのメルセデスだけれど、乗っているのは、ソ連の高級官僚に違いない。

社会(共産)主義とはいっても、結局は一握りの独裁者が支配する、自由を奪われた人々のフラストレーションがうっ積した全体主義社会なんだ。

まあ、西側の資本主義社会でも、それに似通った側面(社会メカニズム)があるわけだけれど・・

そして、ソ連にとって必要のなくなった我々トラベラーは、追いたてられるように飛行機に乗せられ、ふたたび機上の人になったのである。

やっと(西)ドイツだ。