My Biography(36)_ウリの逃避行(その1)

■逃亡者、ウリ・・

「聞きたい・・?」

ウリは、そんな軽い雰囲気で話しはじめた。

彼は、1974年、東ドイツから、クルマのトランクに隠れて西ベルリンへ逃げてきた。私と、ユンカースドルフで出会う2年前のことだ。

まずウリは、当時の東ドイツの内情について語りはじめた。

そのハナシは、共産党の一党独裁だけではなく、シュタージー(シュターツ・ジヒャーハイツ・ディーンスト=国家保安局)と呼ばれ、人々から恐れられていた秘密警察、そして、市民生活のなかに入り込んだシュタージーの「市民スパイ」にまで及んだ。

その実態は、後に、東ドイツの崩壊によって白日のもとにさらされるけれど、まさに、共産主義という衣をかぶった非人間的な独裁統治そのもの。本当にヒドイ社会だった。

ところで、「東」から「西」へ逃れてきた人々。

彼らのことは、亡命者ではなく「逃亡者」と呼ぶのが正しい。

前にも書いたように、西ドイツでは(憲法として!?)、東ドイツ人も「同じドイツ人」と考えている。だから、「逃亡者」には、すぐに西ドイツの身分証明書やパスポートが交付されるのだ。

ただ彼らは、東ドイツにとって憎っくき犯罪者であり、その(西ドイツの)パスポートを使って東ドイツへ入ろうとしようものなら、その瞬間に拘束され、強制収容所へ送り込まれてしまう。

東ドイツから逃れてきた人々にとっては、「東の独裁社会」から解放された後でも、まだ「世界が二分」された状態がつづいていたというわけだ。

もちろん、そんな事情はウリも同じ。

「そうだよ・・いまオレが、西のパスポートでアソコへ戻ろうとしたら、すぐにでも捕まっちゃうよな・・ヤツらは、西にもスパイをはびこらせているんだ よ・・だから、オレの情報は、東にツツ抜けっちゅうわけさ・・もちろん、そのことでオレの家族も、かなり迫害されたよな・・」

そこで彼は、少し辛そうな表情を浮かべたっけ。

この、ウリの家族に対する「迫害」については、後述する。

■その逃避行は、1974年の春にはじまった・・

ウリから(この)逃避行のコトをくわしく聞いたのは、(前回ストーリーで書いたように)ドイツへ渡ってから8ヵ月が経った頃(1977年3月頃)のことだった。

わたしのドイツ語も、大学の語学コースやウリとの会話、また「隣のアリス」との会話などを通じて格段に進歩しはじめていた頃だった。

あっと・・、「隣のアリス」については、また別の機会に・・。

「考えてもみろよ・・学校の生徒のなかに共産党の党員がいるんだゼ・・それはもう考えられない密告社会なんだ・・たとえば、気心の知れた仲間たちで話をしているとするよね・・」

そのとき、語っているウリの表情が、ちょっと引きつったように感じた。

「もちろん、共産党の独裁に対する批判なんかは、みんな恐くて口にできなかったけれど、それでもある同級生が、批判をつい口に出してしまったことがあるん だ・・そうしたら、仲間だと思っていた一人が、すぐに通報したんだよ・・そして、批判した生徒は・・そいつ、たしかハンイツっていったと思うけれど・・す ぐに校長室に連れていかれて、かなりキツく脅されたんだ・・」

一旦言葉を切ったウリが、今度は、一言ずつ噛みしめるようにつづけた。

「それは、もうひどい脅しだったらしい・・その後ハインツは、もう誰とも口をきかなくなってしまったよ・・そんなスパイが、極端なケースじゃ、家族のなかにも入り込んでいるんだぜ・・本当に、あの社会は病み切っていたよな・・」

ウリの口から出てくるのは、もう耳を疑うことばかり。そんな抑圧された東ドイツの人々だから、『自由』に対して強い憧れを抱くのも、ごく自然なことだった。

人生のレールは一本しかなく(その選択にも100%の自由がない!)、そこから外れたら、新たに敷設するレールなど、どこにも用意されていない・・。

東ドイツの若者には、そんな、希望のカケラもない「画一的」なマインドが蔓延(はびこ)っていた。それでは、創造性や想像性に欠けた感性(感受性)に支配されてしまうのも道理だ。

自分の考え方を確立し、勇気をもって決断することで、すべての「束縛」から自身を「解放」させられる西側と、決して実質的な自由を得ることのできない東ドイツは、まったく違う世界なのだ。

ただ一つだけ。

当時の東ドイツの人々の方が恵まれていたのではないかと感じられることがあった。それは、自由を束縛する「目に見える共通の敵がいた・・」ということだ。

だからこそ彼らは、(もちろん意識と意志の高い人々に限ったハナシではあるけれど・・)自由への渇望を、強烈に意識しながら生活できていたと思うのだ。

そう、彼らは、「抑圧された社会から逃げ出す」という具体的な目標イメージを、常に強く意識しながら(それを唯一の希望として!!)生活していたんだ。

「逃げ出すことを決めたのは大学生のときだった・・オレは、ドレスデン工科大学の学生だったんだけれど、同じ大学に通っていたヨハンと、とにかく、これ以上我慢できない、絶対に逃げ出すぞ・・って決心したんだよ」

ウリがつづける。

「もちろん、一緒に逃げるのは危険すぎるから、行動は別々にしなければならない・・でもそのときは、お互いに、決断だけは一緒にする仲間が欲しかったということだったんだろうな」

ウリは、当時を振りかえりながら言葉をつないでいった。

「最終的にそのことを話し合ったのは、ある飲み屋だったんだ」

「学校では、共産党の悪口など、決して言えない・・カベにミミありだからな・・ヨハンとは、子供のころから一緒に育ったから信頼できたけれど、ヤツ以外の学生はまったく信用できなかったというわけさ」

「その飲み屋では、『とにかくやろうゼ!』と腹を決めた後は、もう飲んだ、飲んだ・・とにかくもうヘベレケ状態を通りこしていたよな」

「そのときの心境だけれど、ヤルゾって心に決めたものだから、共産党やシュタージー(秘密警察)のスパイなんかも、まったく恐くなくなっていた」

「とはいっても、もちろん心配はあったさ・・オレたちが逃亡することで、もしかしたら家族にも、独裁者の魔の手が伸びてしまうかもしれないってね」

「オヤジは地域郵便局の局長だったけれど、その仕事が危うくなったり、弟や妹の進学にだって悪影響が及んでしまうかもしれない」

「オイ、ケンジ・・ここまで、ちゃんと理解できたよな?」と、ウリ。

「ヤー!」と、私。

「だから・・多分だから、一緒に決断してくれる仲間が欲しかったということなのかもしれない・・もちろん、ヨハンにしても、同じ気持ちだったはずだよ」

「とにかくそんなだったから、もうどうにでもなれってな心境で、ヘベレケに酔っぱらったというわけさ・・そして、共産党やシュタージーだけじゃなく、ヤツらに魂を売りわたした共産党青年隊や市民スパイなんかについても、言いたい放題だったんだ」

「ところが、オレたちの背後で、そんな会話を聞いていたヤツらがいたんだ・・そう、共産党青年隊のヤツら・・さいわい、オレたちが誰かは知らなかったみたいだったけれど、すぐに、ちょっと話があるからオモテへ出ろっていうことになっちゃったんだ・・相手は3人だったかな」

そこまで一気に話したウリが、クスクスと含み笑いをもらした。

「とにかく、そのときのことは、いま思い出しても胸がスッとするゼ・・オモテに出たところで、ヨハンと小声で話し合っていたとおり、合図とともに、二人をノックアウトしちゃったんだ・・人を殴ったのは、後にも先にも、あの時だけだったよな」

「ヨハンは、ストレートパンチだって言っていたけれど、オレはアッパーカットさ・・不意打ちは好きじゃなかったけれど、相手の方が人数が多いから、それも 作戦ってわけだよ・・後で、手がものすごく痛かったことに気付いたんだけれど、そのときのことは、今でも鮮明に思い出せるぜ」

「その後は、もう後ろなんて振りかえらず何100メートルも猛ダッシュで逃げたよ・・ヨハンもオレも足の速さだけには自信があったからね・・そして小さな路地に逃げ込んだあとは、ヨハンと二人で笑い転げたってわけさ」

そういえば、確かにウリは足が速かった。ユンカースドルフでもそのことは体感していたっけ。

そして、そこまで話したウリが、急に話題をブッ飛ばしちゃうんだよ。そう、具体的な逃避行のハナシがはじまったんだ。

「ところで、そのヨハンだけれど・・」

「その後すぐに、ドレスデン工科大学へ退学届を出して故郷に戻ってからは、まったく音信不通になってしまったんだ・・もちろん家族には、退学のことは伏せ ておいたよ・・不安なんか、まったくなかったけれど、ヨハンと連絡がつかなくなったことだけは、ちょっと心配だった・・何せ、ヤツの家に電話しても、家族 も居所を知らないっていうんだからナ・・」

「そうしたら、故郷の町に戻って、ちょうど一週間が経ったとき、西ドイツから電報が届いたんだよ・・差出人の名前は、故郷の町へ帰る電車のなかで決めてい た偽名だったから、すぐにヨハンが成功したことを知ったんだ・・そこには、誕生日おめでとう・・なんて書いてあったかな・・」

「後から知ったんだけれど、ヨハンは、ヒッチハイクで知り合った、若い西ドイツ人女性の車に隠れて逃げ出したらしいんだ・・でもヨハンは、彼女についてだけは、あまりしゃべりたがらなかったな・・まあ、いつもヤクをやっているような女性だったらしいけれど・・」

「ヨハンは、その彼女が運転するワンボックスの床下に隠れて、西ベルリンへ逃げることに成功したんだ・・とにかく、ヨハンの逃亡成功を知ったとき、嬉しかったのと同時に、強烈な焦りがつのったことを覚えているよ」

そこでウリが、一旦ハナシを切り、何かを思い出すように遠くを見た。

「それで・・・ウリは?」

私は、ドモリながら、つづきを急かしたものだ。

「オレの方は、ヨハンほどツキに恵まれていたわけじゃなかったんだ・・行きがかりの西ドイツ人に頼むにしても、もし隠れているオレが見つかったら、逃亡を 助けたとして、すぐに逮捕されちゃうから二の足を踏むだろ・・とにかく、ヨハンから電報をもらった後は、もう必死だったな・・」

「まあ、とはいっても、状況はよくなっていたんだ・・」

(つづく)